鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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献資料より詳しく検証されている。このように,北斉高氏の出身は「胡化漢人」と北方系民族或は鮮卑族の二つの説があり,いずれも「胡」と関わっていて,本論の出発点と矛盾はしないが,北方系民族或は鮮卑族説は論拠が強固なので,私はそれに従いたい。婁叡は神武(高歓)明皇后婁氏の甥であり,r説書・官氏志』には「匹婁氏後改為婁氏jとある。挑蔵元氏の『北朝胡姓考Jによると,この婁氏は吐谷j軍の一つの部落に属し,皇興四年(470)に敗戦して貌に降したのであった(注17)。なお,吐谷i軍は青海で活躍していた慕容鮮卑の一族である(注18)。また,道貴は,報告書では出土した墓誌の「南陽人」という記述によって「南陽張氏」と推定するが,これに関しては,不明な点がまだ金勝村-墓の墓主の出身は,出土品と壁画の内容からは判断できなかったので,報告書にはふれなかった。以上5基の正面向き墓主像のある壁画墓の被葬者の中で,民族が確定できる三人,即ち茄茄公主,高潤と婁叡の三人すべてが北方系民族に属することが分かる。東貌北斉壁画墓の中でこの他,被葬者が北方系民族の出身者だと判明するのは,あと二人いる。一人は,湾津大墓の被葬者である。湾湾大墓(注19)は北斉の皇帝陵,つまり,被葬者は北斉の皇帝高洋で,皇族の高潤と同じ出身として間違いない。もう一人は庫秋廻洛墓(注20)の被葬者の庫秋廻浩で,前掲の挑蔽元氏の『北朝胡姓考」によれば,庫秋氏は元々鮮卑段氏の出身であったが,帰貌の後,北方の辺境,即ち北鎮に置かれていた(注21)。また,r親書・官氏志』には「次南庫秋氏,後改為1火氏」とあるが,北斉時代においてまた庫秋の姓氏があるのは,当時胡姓が再び流行したことを物語っている(注22)。庫秋廻洛墓の墓室内には壁画が描かれていなかったが,湾樟大墓,すなわち高洋墓は,墓室奥壁の壁画面面が剥落してしまっているので,正面向き墓主像は確認できないが,正面向き墓主像が描かれている高i閏墓と茄茄公主墓と比べると,規模がやや大きい以外,墓葬の全体的な構造や壁画の題材,内容及びその配置がほぼ同じであり,高洋墓の墓室奥壁の下段に正面向き墓主像とその侍従が描かれていた可能性は非常に高い。以上のように,東貌北斉時代において,現在まで発掘された5基の北方系民族出身者の墓のうち,墓室壁画が描かれていなかった1基を除いた4基に,すべて墓室の奥壁,すなわち正壁の中央部に正面向き墓主像が描かれているか或は描かれていた。換言すれば,正面向き墓主像は東貌北斉時代における北方系民族出身者の壁画墓の特徴15

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