2年(1313)から第5回目の天文7年(1538)まで,横川霊山院の霊宝と明記されて2.関連史料の検討の点に関しては,論の後半で改めて言及する。以上,聖衆来迎寺本を描かれた内容と色紙形の位置で分類することによって,15幅全体の構成意図を顕在化することを試みた。本作の構想には『往生要集』の教理から出発しながらも,そこへ独自の解釈を加え,再構築していく理知的な視点が看取される。このような『往生要集』解釈を行い,本作を成立させた思想的背景について,以下では,本作制作のく場〉に関してさらに検討していく。〈比叡山横川霊山院という場〉聖衆来迎寺本に付随して伝来する旧軸木の修理銘では,第1回目の修理である正和いる。ただしこれはあくまでも伝来の過程を示す史料であり,ここから即霊山院を聖衆来迎寺本制作の場所であると断じることはできない。しかしながら,14世紀初頭から16世紀中頃まで,およそ2世紀半に渡って5回の修理を繰り返しながら霊山院に本作が伝来している事実からは,この間の霊山院において,本作が仏画としての「機能」を保持した状態で使用され続けていた状況を推し量ることができる。そして修理銘に示された時期の霊山院における本作の使用目的は,おそらくは第1回目の修理をl世紀は遡らないであろう,本作制作当初の制作意図や使用意図をある程度反映したものである可能性が高いと,稿者は考えている。以上の観点から,本稿では横川の霊山院がどのような場所であったかを,文献史料から考察した。まずは,源信在世時期の平安時代中期に遡って,霊山院における信仰の形を確認しておきたい。00世紀末から11世紀初頭の霊山院一源信による創建,r往生要集』実践の場〉まず霊山院に関して,文献史料と先行研究において知られているところを概観する(注8)0 r阿裟婆抄諸寺縁起j(文永12年(1275)までには成立か)r叡岳要記j(14世紀後半)r山門堂舎記j(14世紀後半までには成立か)には,霊山院が正暦年中(989-995)に源信によって建立された,等身の釈迦如来像を本尊とする法華経信仰の場であったことが記載される。またこれらの記録には,毎月晦日に霊山院にて法華経を講じる法華経談義が行われ,これが霊山院釈迦講と呼ばれていたことも記されている。さ235
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