らに,源信が寛弘4年(1007)に著した,霊山院における日々の生活規範を事細かに定めた『霊山院過去帳j(1霊山院釈迦堂毎日作法J1霊山院式Jと結縁者名簿を収録する。聖衆来迎寺文書)には,本尊の釈迦知来像に対してあたかも生きているかのごとく供養する,所謂生身供を行うことが定められている。また横川には,霊山院の他にも源信によって創建された華台院という場所があり,そこでは二十五三味会という念仏講が行われていたことも,前述の史料等から知られている。そして堀大慈氏(1三十五三味会と霊山院釈迦講一源信における講運動の意義一」日本名僧論集4~源信j11983)によると,源信の活躍した平安時代中期,横川の霊山院と華台院は,講に参加する貴賎・聖俗併せた人々の交流によって不可分につながっていたことが,明らかにされている。つまり,草創期の霊山院は,華台院と共に,源信が『往生要集Jにおいて説いた念仏往生と諸行往生の実践の場所として相互補完的に存在し,信仰を同じくする人々のネットワークの中心にある場として機能していたのである。では,その後の横川霊山院周辺での信仰の形はどのような様相を呈していたであろうか。12世紀以降の霊山院に関する史料が決して豊かではない中で,13世紀の霊山院に関しては若干の史料を指摘することができる。以下では13世紀の横川に目を転じ,霊山院を中心とした信仰の形とこの時代の横川における源信思想の継承のされ方を検討することで,聖衆来迎寺本に繋がるく思想、・場・人〉に関する具体的手がかりを探っていきたい。く13世紀の霊山院一九条家との幹〉聖衆来迎寺には,12世紀後半~13世紀の霊山院の様子を伝えるいくつかの重要な史料が伝来している。稿者はその中に九条兼実(1149-1207)や,その実弟の天台座主慈円(1155-1225)をはじめとする九条家関係者との繋がりを示すものがあることに注目している。また,兼実の日記『玉葉』にも,霊山院の扇額に兼実自身が揮遣した旨が記載される等,12世紀後半~13世紀初頭の霊山院が,九条家を有力な外護者としていた可能性が高いことをここで指摘しておきたい。以下では関連史料において,この点を確認しておく。紙面の制約上,本文の引用は一部にとどめるが,本研究において取り上げた史料名を以下に記載する。-236-
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