鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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傍根部①には,霊山院内に後京極殿と呼ばれた摂政九条良経(1169-1206兼実次男)の筆になる額があったことが記載される。また,傍線部②には,治承3年(1179)10 月2日に霊山院再建供養が安居院澄憲法印を導師に招いて執り行われたことが記載される。(史料2) 『玉葉j(巻三十五治承四年(1180)八月廿三日条/国書刊行会編『玉葉』よりヲ|用)「廿三日,話[天]晴,物忌也,写霊山院間額遣申請上人許,件額権大納言筆也,市其板破損,其字消滅,修造彼堂之間,為打改新造額板,相副本所送也,事依善事扶病下筆,本額難字消,大途見其体,{J)一塵不違点画写之,以至愚之暗質,写先賢之遺跡,ーハ可悦,ーハ可恐,の仰僧令全八字文殊不動明王等,抑件額写本,素所相持也,Z富野人,市校正本之処,相違太多,侃新写留草了,大将今日頗有増云々,の修鬼気祭,又行仁王講等,J ここには,かつて権大納言(藤原行成)が揮呈していた霊山院の額が風雪を経て消えかかっていたので,上人(霊山院の僧か)から兼実に新しく揮牽することが依頼され,兼実はそれが善行であるので病をおして筆をとり,行成の文字の痕跡を頼りに,もとの文字と寸分違わず筆写し,依頼主の許へ送り届けたことが記されている。またこの際,かつて制作し兼実の手元にあった同額の写しを実際の文字と引き比べたところ,相違が甚だ、多かったので,改めて写本を制作したことも書き記されている。さらに,兼実が扇額を新調した治承四年頃には,霊山院の堂の修復も行われていたと記録されるが,これは,(史料1)傍線部②において記載される治承年間頃の修復事業と同ーのことを指すと考えられる。(史料3) 『玉葉j(寿永二年(1183)八月十五日条/国書刊行会編『玉葉』よりヲ|用)「入夜向御堂,法印率弟子等,令修廿五三昧念仏,源信僧都始此行云云,最上功徳也,此法印年来於住坊修之,今月被座此辺,伺使参御堂,今為結縁率女房所聴聞也,J ここには,兼実が実弟慈円の導きで,女房らと共に二十五三昧会に結縁したことが238

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