鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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と言える。一方,現在まで発見された21基の東貌北斉壁画墓の中で,墓室の奥壁の中央部に正面向き墓主像が描かれていないと確認できる墓葬は4基あり,それらは崖昂墓(注23), 崖芥墓(注24),済南市東八里窪墓(注25),顔玉光墓(注26)である。崖昂は河北平山の人で,博陵崖氏に属する北方の名門出身である(注27)。崖芽は,清河東武城の人で,東説末に南討大行台都軍長史に任ぜられ,天保元年に卒し,2年(551)に臨胸海浮山に埋葬されている。文献史料によると,清河崖氏は北方の冠菟四姓,即ち北親孝文帝の名族選定中の四姓の一つである(注28)。北斉文宣帝高洋の妃である顔玉光は顔姓で,当時の北来大姓顔子推(注29)と関係があると考えられる。顔氏は山東の現郁華県の人であり,唐代の書家顔真卿の系統でもある。また,済南市東八里窪墓の被葬者は身分が明確ではないが,壁画に車馬,属吏,華蓋,要などの内容が表現されていないので,山東の富豪である公算が大きいと考えられる(注30)。つまり,正面向き墓主像が描かれなかった4基の壁画墓の被葬者すべてが漢民族の出身者で,しかも,崖芽の清河崖氏,崖昂の博陵雇氏は,いずれも当時北方の名門豪族である。従って,正面向き墓主像は東貌北斉時代における北方系民族出身者の壁画墓の特徴といえる。この点からいえば,道貴墓と金勝村墓の被葬者は漢民族ではない。万一,漢民族にしても,すでに胡化された漢人で、あろう。第二節南北朝時代他地域の壁画墓,碍画墓及びその他(1) 西貌北周時代壁画墓今までに発掘された6基の西貌北周壁画墓のうち,5基で壁画がほとんと守残っていない。残りl基の李賢墓(注31)の奥壁に6幅が配置されているが,保存状態がわるくて画像の様子は判別できない。つまり,6基の西委理北周壁画墓の奥壁に正面向き墓主像が描かれているかどうかの結論を出すことができない。しかし,李賢墓に描かれている正面向き武士の立像はきわめて目立っており興味を惹かれる。墓葬壁画の中の武士像の役割と重要性は墓主像と比べるとかなり小さいが,ここで,まず注目すべきは,李賢墓の武士像は正面向きであるということである。つまり,正面向き墓主像にしろ,正面向き武士像にしろ,いずれも正面観の意識をもって完成されたものである。しかも,この武士像の耳染は仏像の耳呆を想起させる。西貌北周はさまざまな分-16

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