鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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戒JL、谷愚老権律師隆寛貴カ(1148-1227)とやりとりした和歌計30首が収録されるが,和歌の序文傍線部①,傍線A [18645J関東御教書案永仁二年八月二十四日B [18972J近江霊山院破損注文永仁四年正月C [19037J近江霊山院僧等申状永仁四年三月D [19166J近江霊山院修造用途注文永仁四年十月二十四日E [19174J後宇多上皇院宣案永仁四年十月三十日F [19187J伏見天皇論旨案永仁四年十一月十一日G [19204J寂真申状案永仁四年十一月日① (史料6) 『拾玉集』第五冊(多賀宗隼編『校本拾玉集』より引用)「我立柚之中幽居嘉之洞有霊山院忍鷲峯跡欣彼恵心之素懐呈此愚老之丹練授恋慕於讐涙載至孝於竹篇唯志之所之更忘人之明而己(慈円詠歌十首略)昔恵心僧都這移慈父在世之儀近開賢聖囲緯之図今霊山院是也我公大和尚君主就此勝絶之② 地敬報彼諸霊口恩御願雄似新興隆猶依奮済度以有縁為口先利益及無縁為本戯於遣哉大哉抑有十首花篇金玉韻驚聞不堪情感脆以奉和夫(隆寛詠歌二十首略)J慈円の家集『拾玉集Jには慈円が横川の霊山院のことをしのんで横川戒心谷の隆寛部②に慈円・隆寛両者による,源信の事跡を留める場所としての霊山院への思慕が表されている。詠まれた時期は定かではないが,隆寛が戒心、谷愚老権律師隆寛と署名していることから,隆寛が権律師に任ぜ、られた元久2年(1205)年以降のことであろうと推測される。(史料7)7件聖衆来迎寺には,永仁2年(1294)~永仁4年(1296)にかけて,霊山院修復工事に関連して発給された一連の文書が残る。13世紀末の霊山院の様子を詳細に知ることのできる重要な史料であるが,長文であるのでここでは本文の掲載を差し控え,r鎌倉遺文』採録の文書番号([ J内)と表題を記載する。-241-

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