4 )においては,兼実,慈円周辺で源信の思想、が確実に受容されていた跡を確認する以上の文書は,永仁年間に霊山院の寂真という勧進僧が,堂宇の修理について,関東方へ修復工事を依頼するために記した一連の文書(B,C, D, G)と,それに対する幕府からの応答(A,E, F)である。特にBi近江霊山院破損注文」の文書には,この時期の霊山院の堂宇が詳しく記載され,本堂内荘厳に関しては,本尊釈迦如来像を中心に法華経に典拠する壁画が描かれること等が詳細に記述されており,興味深い。また,本文書には,霊山院の堂宇について,本堂(一間四面堂)一宇・本堂廊一宇・鐘楼一宇・経蔵一宇・鎮守神社一社・如法普賢道場二宇・惣門・普賢堂門・房舎四宇・知法経析帯供台一宇・大湯屋一宇,と記載されており,当時相当の規模を供える堂宇であったことが分かる。これが源信創建当初の堂宇を伝えるものかどうかは,この史料だけでは判断しかねるが,少なくとも13世紀を通して,霊山院には,創建当時の構想、と同じ,法華経信仰の場としての形が踏襲されていることが判明する。また,A i関東御教書案」には,i仏閣修理弁生身供勧進事」との文言があり,この段階でも本尊釈迦如来に対する生身供の伝統が霊山院に受け継がれていたことが示される。以上,12世紀後半~13世紀における霊山院の様子を伺うことのできる史料を管見の限り提示した。(史料1)(史料2)(史料5)(史料6)からは,12世紀後半から13世紀初頭における霊山院と九条家の人脈との繋がりが確認された。また(史料3)(史料ことができた。さらに,(史料7)からは13世紀最末期の霊山院においても尚,創建当初に源信が目論んだ,法華経信仰の場としての堂宇の形が踏襲されていたことを伺い矢口ることカすできた。おわりに本稿では,まず聖衆来迎寺本の全体構成について,i六道輪廻からの,念仏と閤魔信仰による救済」という信仰世界が表象されたものであることを指摘した。次に本作が14世紀初頭から16世紀中頃まで伝来していた比叡山横川の霊山院という場所が,少なくとも13世紀末までは,源信が『往生要集』において説いた念仏往生と諸行往生思想のうち,法華経信仰に基づく諸行往生思想、の実践の場であったことを確認した。その上で,霊山院という場所と聖衆来迎寺本の関係を今一度考えてみたい。242
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