鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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〉王(1) 蓮実重康「表具師能阿弥と来迎寺十界図J(r美術史J10, 1953年),大串純夫「六(2) 本作に関する先行研究を以下に掲げる。10世紀末の創建以降13世紀末まで,霊山院が源信の浄土思想、を実践する場であったことは,本稿で取り上げた史料により明らかである。そして,聖衆来迎寺本の存在によって,旧軸木に記された14世紀以降16世紀中頃までの霊山院においても,源、信の浄土思想、は受け継がれていたことが証明される。つまり,13世紀以前の文献史料に看取される,霊山院における信仰の形と,聖衆来迎寺本を所有し,使用していたことから伺われる14世紀以降の霊山院における信仰の形には「源信の浄土思想」という一貫性を指摘できるのである。このことから,稿者は聖衆来迎寺本が当初より霊山院の什物として制作された蓋然性は高いと考える。その上で,次に問題となるのは,法華経信仰の道場である霊山院において「念仏往生」を六道からの救済手段とする本作がなぜ必要とされたか,という点と,源信の思想にはない「閤魔信仰jの要素はいつの段階で霊山院にもたらされたか,という点である。前者の問いに関しては,霊山院と相互補完的に存在していた華台院の二十五三昧念仏講の存在が重要な観点となろう。また霊山院における閤魔信仰に関して,稿者は,前出の安居院澄憲・聖覚親子の浄土思想が重要な鍵となるのではないかと考え,現在考察中である。しかしこれらの点に関しては別稿に譲りたい。最後に,本稿においては様式論的制作年代考察に関する一切の言及を差し控えた。基準作例の少ない13世紀の仏画において,どの様な作品との比較が妥当か,という点について確信を得ることができなかったためである。そのため,本作の制作年代に関しては,現状では修理銘の示す113世紀のいずれかの時期Jという見解しか持ち得ていない。しかしながら,今回,聖衆来迎寺本と法華経信仰の場であった霊山院との結びつきを考察する過程で,仏伝図や法華経変相図など,法華経に典拠する絵画作例との図像学的な比較(注9)や,絵画様式的な比較は,本作の制作年代を特定していく上で,有益な作業となり得るのではないかという見通しを得るに至った。今後最も早急に取り組みたい課題である。道絵新資料J(r国華J753, 1954年)参照のこと。大串純夫「十界図考Jr美術研究J119-120,美術研究所,1946年/r来迎芸術』-243-

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