彩色摺について(見当のこと)日本における彩色摺は寛永4年(1627)刊行の『塵劫記J(吉田光由著)に始まる。二色以上の色を重ねて摺る為には,少なくとも二枚以上の板を,一枚の紙の決められた場所に摺らなくてはならない。摺る場所を合わせる為に,目安となる「印=見当」が必要となるのである。『塵劫記』には,紙面上に鈎型の汚れが見られ,ここに三色の絵具の痕跡があることから,この鈎形が見当であるとされている。寛永21年(1644)刊行の『宣明暦j(吉田光由著)では,罫線枠と絵の一部の線を見当として色板を合わせている。「父の恩J(注1)(享保15年刊・1730)は,巻末に四図の色摺の例があることから,色摺版画史上で重要な一書として位置付けられている。各国とも円窓の中に配され,縁,茶,代路,黄土色などで彩色されている。ここでは,各図の円窓の枠を見当としたと考えられている(注2)。この方法では,かなり細心の注意を必要とし,量産には適さず追善集のような配り物でなければ不可能であった。享保期を中心に盛んに制作された俳諾の発句集「秋の雛Jr冬の塵J(注3)などは原始的な二■三色摺であるが,多少の色ずれが生じても構わないように,輪郭線の無い所に重ねている。また,一枚の板木の中で彩色を変えている作品もあるようである。近年,詩筆に彩色摺が多く使用されていた例が紹介された(注4)。詩集には,紅,草色を中心に繊細に着彩がなされている。これらの作品には,合羽摺の手法のものや,一枚の主版に色を分けて置き,一時に二色の彩色をしたと思われるものもある。しかし,二枚以上の版を作り彩色されたものが認められ,その多くが円窓や長方形の枠を持つ。このことは『父の恩Jと同種の見当である可能性を示唆している。また,これらの詩筆は摩滅の無い綴密な線を今に伝えており,大量に摺刷したものではなく,私的な版副ーであることを伝えている。これらの見当はいずれも紙の上に何がしかの印を設け,それに合せて色板を重ねる方法であった。紅摺絵について口はじまり紅摺絵の始まりに触れる論には必ず,引用される文献がある。その創始を探るに貴重な文であり,重複する感はあるがここに引用する。-249-
元のページ ../index.html#258