鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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「錦絵は明和二年の頃唐山の彩色摺にならひて板木師金六といふもの版摺某甲を相語版木へ見当を付る事を工夫してはじめて四五遍の彩色摺を製し出せしが程なく所々にて掲出す事になりぬと金六みずからいへり(略)J (滝沢馬琴『燕石雑志』巻三)ここで重要なのは「版木へ見当付る事Jの一文である。今までの紙の側に着彩の主体を置く方法から着想を転換したことにより,日本の版画の発展が確実になったといえる。上述の論にその制作年代において,萄山人が異論を唱えている。「此説非なり,見当は延享元年江見屋上村吉右衛門工夫也,故に今に見当のことを上村といふJ(r一話一言J巻二十五)従来紅摺絵は,この「一話一言』の説と現存作品から推して(注5),延享(1744~1748)頃からその制作が始まったとされてきた。しかし,二代鳥居清倍による「八代目市村羽左衛門と初代瀬川菊之丞J(パリ国立図書館所蔵)がその演目から寛保2年(1742)の制作と考証されている。また千葉市美術館所蔵の「関羽と美人J[図1Jは寛保3年の絵暦である。このように寛保期に制作の作品が発見されており,近年では延享を少し遡る寛保(1741~ 1744)期に紅摺絵が始められたと解釈されている。口色彩について紅摺絵とは,文字通り紅を主体とした多色摺版画である。当時は紅摺絵とはいわず,「紅絵(紅画)Jと称したが,筆彩色時代の「紅絵jとの混同を避けるため,戦後に称されるようになった言葉である。紅摺絵と一言で言っても,紅と緑の二色を巧みに色分けしたものから錦絵と見紛うものまで様々な段階の作品がある。従来,紅摺絵の発展は,始めは紅と緑の二色から,やがて藍や黄を加えた彩色をすると考えられてきた。今回の調査では,まず,その彩色に何らかの法則が無いものか現存作品から辿り,未定稿ではあるが「紅摺絵年代別使用色系統一覧」として別表の通りまとめた〔表〕。紅摺絵は植物系の絵の具を使用しているため,槌色が甚だしく微妙な色彩の違いについて言及することは困難である。その為,大まかな使用色での表記となった。この表では,制作年代の特定出来る絵暦(注6)や役者絵を参考にし作業を進めた。表を参照し,紅摺絵の発展の過程を検証してゆく。-250

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