野で東委理北斉と異なり,独自の特徴があるが,北貌孝文帝以来の漢化政策に反発して,一連の反漢化政策を推進したのは東貌北斉と同じであることが知られている(注32)。反漢化というのは,漢文化をそのまま学ぶことでなく,漢文化に対してあたらしく解釈,あるいは改造することである。この点からいえば,正面向き武士像のある李賢墓の被葬者李賢の所属民族はこの問題点を解決する鍵になる。『周書・李賢伝』には,李賢の出身については「其先陣西成紀人也」のみとあり,非常に簡単であるが,r惰書』の弟の李穆の伝によると,李穆は自ら「臨西成紀人i莫騎都尉陵之後也。陵没旬奴,子孫代居北引く,其後随貌南遷,復帰iJ干融,祖斌以都督鎮高平,因家罵」という。臨西成紀は現在甘粛省の天水にあたり,漢騎都尉陵は前漢時代の名将李陵のことで,漢武帝天漢二(前99)年敗戦して旬奴に投降している(注33)。李賢の祖先は漢民族の出身でも,I代居北秋J,四百年以上たってかなり胡化されたのであろう。前掲した挑穣元氏の考証によれば,李氏は元々は高車族の泣伏利(即ち叱李)氏で,北貌に帰したのち,李氏に改めたのである。つまり,李賢は東胡高車族の出身であるという説もある(注34)。自ら認めていた胡化された漢民族にしろ,挑説の高車族にしろ,北方系民族の風習に強く染められていたことは間違いない。すると,李賢墓の奥壁に正面向き墓主像を確認できないものの,その正面向き武士図の図像的な特徴は,東貌北斉壁画墓の奥壁に描かれている正面向き墓主像との共通点があるのではないだろうか。棺床囲扉画既に考察したとおり,2000年,陳西省西安で発見された北周時代の安伽墓(注35)は今まで知られる棺床囲扉彫画の最も古い例である。墓主の図像は墓門上方の半円形の門額に刻される祇教の祭杷場面に,また棺床囲扉に表現される車馬出行図,狩猟図,野宴図,燕楽図,家居図,迎客・宴客図,商旅図,居家宴楽図,出行図などの場面に描かれ〔図3J,いずれも墓主像は側面向きで動的であり,西域風の強い日常生活の情景である。同時に出土した墓誌銘によると,安伽は「姑蔵昌松人」で,I同州薩保,大都督jである。姑蔵は今の甘粛省武威で,同州は今の険西省大嘉である。また薩保は官名で,北斉は薩甫,陪は薩保,唐は薩宝と材、され,胡商を管理し,祇教祭杷を主事する官吏であるため,報告書は安伽が中央アジアの粟特人,即ち「昭武九姓j中の安姓の出身と推定している。このように,旬奴系の李賢墓に正面観の意識があるが,中央アジア系の安伽墓にはないことが分かる。17
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