鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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7)。I(略)夫より後,清信色摺の紅絵を工夫し,紅藍紙黄汁の三色を板にし以て売り出せ(略)J寛保2年(1742)から宝暦6年(1756)までは,ほとんどが紅と緑の二色である(注「紅jは,宝暦後期に黄味の少ない赤に近い色のものが出てくるが,紅の色についてはそれ程の変化はない。寛保期から延享期の緑は草(黄緑)色や少し青味のある緑を使用し,淡い色調で表現されている〔図1)。寛延期に入ると,黄緑系の草色は少なくなり,青味のある緑と,少し濁りのある深緑色が使用され,紅との対比が鮮やかである。いずれの緑も青味を帯びているのが特徴である。この風は,宝暦の初期まで続く〔図2)。宝暦の中期には,それまでの「紅・緑jに「青」が加わった三色摺が始まる。この青は「藍」を使用したものか,槌色する例が多い。淡い「薄藍」だけでなく,すこし鈍い濁りのある鼠色の「灰青」の系統も使用された。今回の調査では,宝暦6年(1756)にこの「青jの早い例を確認出来た。これは宝暦6年11月市村座『掃花金王棲』の一番目「今様道成寺」に取材したもので,瀬川菊之丞の白拍子連理の姿を描いた作品である〔図3)。細心の注意を払い彩色摺された作品であるが,瀬川菊次が二代目瀬川菊之丞の襲名の絵姿と考えれば納得がゆく。ここに藍の槌色と思われる白茶色が確認される。これ以降紅摺絵の歴史に,淡い藍色や,I灰青jの系統の色彩が加わることとなった。『浮世絵類考』に「寛延の頃より彩色を板刻することを仕始めて紅藍黄の三遍摺なりj『絵本反古龍Jにし所,官会り華美なる物なりとて差留られしが,幾程もなくゆるされぬ,宝暦の頃まで皆是なり,其の比の画工は清信が子の清倍,門人清広,石川秀信,富川房信などなりという文章がある。しかし,この黄色の使用は意外と遅く,今回の調査では,i青満らの描く宝暦10年(1760)3月市村座「曾我高年柱」の芝居に由来するものが早い例としてあげられた(注8)[図4)。以上のように,今回の調査では,従来二期に分けて考えられてきた紅摺絵期(注9) が,-第一期紅と緑251

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