鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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色板が,色ずれもなく摺られている。この作品では,着物の部分に「紅と藍J,扇の中心部分に「黄と藍J,扇の雲形の中と袖口の部分に「紅と黄」の重ねがあり,全部で六色の色彩が使われている。替などの細部に至るまで重ね合わされている。紙の湿度を一定に保つことや,均等に力を加える摺の技術の進歩もあったと考えられ,あらゆる技術が躍進した証拠であろう。錦絵直前の紅摺絵には,かなりの工夫と技術の進歩があったと言えるのではないだろうか。ここまで見てきた事から,紅摺絵を錦絵への橋渡しとしての存在ではなく,独自の工夫をもって発展した色摺版画として積極的に評価する必要があるであろう。ここでの技術の発展,色を重ねて摺る場合の注意などを彫師,摺師に至るまで体験的に理解しているからこそ,明和2年の錦絵創始の契機となった絵暦交換会の作品制作にあたって様々な技術が伝達・実践されたと考えられるのである。おわりに今回の調査では,紅摺絵の作品は,全て三枚の色板で摺られたものであった。しかし,宝暦14年(1764)頃に制作された(注12)と位置づけられている「風流ゃっし七小町」の揃物は少なくとも四枚以上の色板が使用され錦絵とも認識できる作品である(注13)。そして,紅摺絵としては珍しく版元印が明記されていない。これは春信の「坐舗八景Jなどのように,包紙に入れ販売したために割愛されたのと同種の省略なのであろうか。また,紅摺絵では三幅対ものなどのような三枚を一組とした作品は寛延宝暦初期を中心に数多く制作されたが,菱川師宣,奥村政信らを初併とさせる組み物(揃物)を意識した作品は少ない。このように「風流ゃっし七小町」は紅摺絵の中にあって突出した作品である。従来宝暦末頃をその制作時期とされている没骨の色摺版画の「水絵jであるが,その使用色数は四色■五色にのぼる。またそこに描かれた人物表現は,r風流ゃっし七小町Jの人物表現と同様に,春信の錦絵期に並ぶ柔らかさがある。『反古龍』には「錦絵の出はじめの比,浅黄といふ物あり。藍紙紅鼠色草の汁にて墨板を用ゐず,採蓮船甘目撃日赤壁の様なる唐園を摺たるみよし四ッ切の絵にて,北尾重政の筆多かりしJとあり,錦絵が創始されてからの制作である旨の明記がある。しかし,r風流ゃっし七小町J,一連の水絵の作品の制作年代を,宝暦とするか明和とするかは錦絵の誕生にも関わる重要な事であり,性急な結論は避け,今後の研究の課題としたい。254

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