鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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⑫ 初期日本曹洞宗における頂相の研究一一道元から紹蓮までを中心として一一研究者:東京芸術大学大学院研究生問題の所在鎌倉時代に入ると,内外の情勢により,日本の悌教は従来の南都と平安の八宗に代わり,禅宗・浄土宗等の新悌教が急速に発展してきた。これに応じて,日本の美術も宋朝からの新来画風の影響の下で,斬新な展開を呈した。その中で,頂相という禅僧の肖像画は,時の日宋貿易の商船によって,多くの入宋僧及び来朝僧が粛した禅宗美術の一つである。ところが,日本美術史上に知られている頂相の名品の数々は,おおよそ臨済諸流に伝わってきたもので,曹洞宗のものは,四代目の埜山紹瑳の頂相の一点以外には,殆んど重視されていない。誠に甚だ遺憾な現状である。実際には,越前の永平寺,賓慶寺,横浜鶴見の総持寺など名刺では,数多くの曹洞宗祖師の頂相を秘蔵し,中には決して臨済宗のものに劣らず,優れている逸品がある。京都,鎌倉のいわゆる日本文化の重鎮の地は,殆んど臨済将軍の振る舞う領域であるが,初期の曹洞宗はひそかに遠く山林に隠れ,或は,都から外れた地方で目だたなく勢力を伸張したのであるが,それが従来美術史上において無視され,研究が及ばなかった理由であろうか。しかし,初期曹洞宗の祖師たち,開祖道元は勿論の事,三代目の徹通義介,大慈寺の寒巌義手などの名僧は相次いで渡海入宋し,明州慶元府の天童山をはじめ,各地の名刺を巡拝し,宋の禅林における清規制度や儀礼作法などをよく吸収した。また,賓慶寺の寂円は宋朝より来る来朝憎で,道元と同じく天童如浄に師事した人物である。彼らは,宋とのネットワークを親密に持ちつづけ,最も先進文化を伝えた立役者と言えよう。小論は,従来学界で見落とされていた初期曹洞宗祖師の頂相を広く調査し,その実態を明らかにして,その真価を問いただしたい。その際に,高祖道元の自賛像,観月像,二祖孤雲懐実,永平三世徹通義介,太祖埜山紹瑳の頂相を中心として論究する。また,その研究と関連する中国曹洞宗の天童宏智正覚と天童長翁如浄の頂相を取り上げ,その究明に及ぶのも極めて重要な手掛かりと考え,特に道元の自賛像は,画風的,造型的にも,宏智の頂相と酷似している点は,注目すべきところであり,天童宏智の頂相は,恐らくのちに道元の頂相の手本になっ胡建明260

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