鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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(2) 北貌時代壁画墓北貌時代の壁画墓は元父墓,王温墓の2基しかない。元父墓(注36)は羨道,天井,墓室四壁に壁画が描かれていたが,天井の天象図と四壁上部の四神図像だ、けが残って,他の部分はすでに剥落していて,具体的な様子は判明しない。王温墓(注37)は墓室壁面に壁画が描かれているが東壁にある墓主夫妻の宴飲図の保存状態が一番良い。建物(雌幌)に座る墓主夫妻を中心に,侍女・童子・園林(山岳・樹木)が描かれているこの宴飲図は,生き生きと墓主夫妻の日常生活を表している〔図4J。元父墓の被葬者の元父は,r墓誌集釈Jによると,r親書』にある元叉である。元叉は北競第一代目皇帝拓政珪の孫江陽王元継の長男で,粛宗朝の権臣であり(注38),鮮卑族の出身である。王温は,正史に伝記がないが,出土した墓誌銘によれば,I燕国楽浪楽都人…晋司空沈之後也。昔逢永嘉之末高祖準晋太中大夫以祖司空・幽州牧渡遇石氏之禍,建興元年自蔚避難楽浪,因而居罵。J(注39)とある。「晋司空沈J,I司空・幽州牧凌」はすべて『晋書』巻三九『王沈・子凌伝Jに見え,I太原晋陽人Jとある。つまり,王温本来の出身は貌晋南北朝時代における北方の漢民族の豪族である太原王氏で,永嘉の末,石氏(石勤)の禍によって,幽州の荊(北京)から楽浪(今の北朝鮮境内)に避難したのである。再び,目を壁画の方に移すと,北方系民族の出身の元父墓は,壁画の保存状態は悪くて,正面向き墓主像が描かれたかどうか確認できないが,漢族出身の王温の墓には,前述したように墓主像があるが,後壁でなく東壁に表現されていて,しかも,墓主夫妻の宴飲の場面を表しており,東魂北斉壁画墓の中の神格化された正面向き墓主像とは,まったく違うイメージである。石梓壁画墓北貌では,2基の石梓壁画墓があり,大岡市北貌宋紹祖墓(注40)の石棒内壁画は保存状態が悪く,北壁(奥壁)の撫琴図しか判明しない。もうl基の同じ大岡市にある大同智家壁北貌墓には,北壁(奥壁)の中央部に帳内の楊上に正面向きに坐る墓主夫妻の並坐図が描かれ〔図5J,その背後に女侍3人,両側に男女侍従が2人ずつ描かれている。この石惇壁画上の人物はすべて鮮卑族の装束で表現されている(注41)。宋紹祖は出土した墓誌銘によると,1幽州刺史」また「敦憧公jである敦埠郡の宋紹祖であることが分かる。『説書.J,r北史.1,r資治通鑑』などの正史にその伝記は見えないが,敦煙郡の出身であることがはっきりしており,敦埠の宋氏に間違いない。文献-18 -

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