鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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代は不詳であり,関西学院大学名誉教授源豊宗博+~こよると,この頂相は南北朝時代(1) 永平寺に所蔵される「自賛像」たのではないかと推察されるのである。また,孤雲懐英と埜山紹瑳の頂相は,道元のものとは遥かに異なる形式であり,臨済の頂相に影響されたことは看過できないであろう。(一)道元の頂相について永平寺に現存している道元(1200-1253)の「自賛像J(61. 7x28. 5) [図AJは,時まで遡ることが出来ると推定されているが私は室町時期にあらためて作られたのではないかと考えている。勿論,道元禅師の存命中に,すでに寿像が描かれていたに違いなく,そして賛を自ら付したであろう。現存のー幅は恐らく原本に基づいた模作だと思われる。特にその賛から見れば,道元の自筆でなく,内容も欠落しており,明かに模写されたことを確認できる。原本は火事か破損かによって散逸したのではなかろ. . うか。それにも拘らず,この作品は如何にも気品の高いものである。紙本著色でj体は右向きで,大陸風の曲京に坐す全身像を描き,顔はやや上向きの端正な面貌で,高貴な皇族の面影を備える優雅な風格を現している。身に青黒色の衣と袈裟を纏い,両手に払子を持ち,誠に神々しい風姿だと感じられる。その袈裟は多分道元が師の如浄から付された芙蓉道楢の法衣であろう。これは「三祖行業記jによれば,如浄が離別の能としてそれを授けられた際に「汝在於本国,化導入天時,須著斑衣(芙蓉桔祖の伝衣)無妨,此我意巧耳」と記し,また,I明極和尚語録」第三「日東可禅人(宗可)回郷」の条にも「浄即将芙蓉措祖所付法衣,竹箆,白払,賓鏡三昧,五位顕訣,密授与元公,公得此法,寛帰日東本国Jと見え,さらに面山瑞方の「釈氏法衣訓Jに「永祖天童師祖へ離別の時,芙蓉桔祖より正惇ありし青黒色の衣を以て付嘱せられ,今に吉祥山の室内に遺在せり,余親く拝見す」と述べられ,間違いない史的事実である。実際には,多くの頂相の内,着用された袈裟は実物であることを幾っか確認できる。もう一つ言えるのは,この袈裟には,円環がなくて,頂相の中では極めて珍しいものといえよう。そういうことで幕末安政の頃,永平寺と総持寺との聞に衣瞳に関する異論が起こった。いわゆる「三衣論争」の典拠とされていたのである。引き続き,その賛を劃酌してみよう。その賛は,I永平広録」第十に所収され,文は「認是為真,真為甚是,挙是為非,為261

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