甚待真,IE座見得,掛空何是身,~音壁未全心,道元自題」とあり,その第三句の「挙是為非」の為非の二字を脱してその傍に補写されていることは,道元の手によるものではなく,賛を筆写した者の不注意で、書かれたのではないかと思われる。また道元の真蹟と比してみても,やはり自筆とは認めるべきものではないことは歴然としている。道元の書は力強く,のびのびとして疎放の姿態を呈する。彼の「普勧坐禅儀jの書を見れば,一目瞭然であろう。しかし,頂相そのものは,バランスがよく,その面相といい,その姿態といい,世俗の摩を脱した高逼な禅師の真影が高尚に画かれている。珍重すべき名品であると思う。A,道元の「自賛像」と天童宏智正覚の碑刻頂相との比較中間では,宋元時代の禅僧肖像画は殆ど浬滅した。残存しているのは石碑に刻されたごく少数のもので,天童宏智の頂相〔図BJ(96x64)はその中の一つである。興味深いのは,その肖像画の画風においても,構図においても,上述した道元の自賛像と驚くほど酷似していることである。私は天童宏智禅師の頂相は恐らく道元像の祖形ではないかと考えている。天童宏智正覚禅師(1091-1157)は,洞山下の第九代目の法孫,丹震子淳の法嗣であり,宋慶元府天童景徳禅寺第十六代の住持,天童中興の祖である。宏智の黙照禅と大慧宗呆(1089-1163)看話禅とは,当時二甘露門と称せられ,有名な「宏智録Jを残し,山西省の隈州の出身の故に「隈州古備」と称した。当時の代表的な禅者である。彼の同門法兄の長藍清了は天童如浄の師であるので,道元は宏智の孫弟子に当たるわけである。道元の著書の中では,大慧宗果の看話禅に痛烈な批判をしたが,宏智に対しては師の如浄と同じく尊敬の念を抱いているのである。そして,同門の祖である宏智を意識する道元は,宏智の頂相を参照して,自分の寿像を製作するのはなんの不自然でもない。宏智正覚の碑刻頂相は,現在中国i折江省寧波市太白山天童寺に現存している。その拓本は駒津大学図書館に収蔵されている。その画賛(1天童宏智老人像賛J)は,隣峯の阿育王寺の住持大慧宗呆の撰した自筆のものである。その像賛は,1天童宏智老人像賛,育王妙喜宗呆賛。烹悌烹祖大鐘輔,*段凡椴聖悪錯鎚。起曹洞於己墜之際,誠膏宵於必死之時。善説法要,間j歩離徴。不起子座,而変荊腕林為先稗龍天之宮。而無作無為,神澄定霊,雪頂尼眉。良工写出分不許僧蔀知,虚堂掛張分梁賓公猶迷。箇是天童老古錐,妙喜知音更有誰。」となっている。宏智は紹興二十七年十月八日,六十七262
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