鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
272/670

歳で示寂し,天童山の東谷に葬られた。生前の約束のように,宗果は,宏智の葬礼の導師となり,その「掛真jの儀に宏智の遺影に題字したのであろう。そして,翌年の(紹興二十八年,1158)正月,宏智の弟子である法為が師の「東谷無尽燈碑Jを立石した際,それを彫ったと考えられる。その真影は恐らく道元が入宋した問,宏智の年忌に当たって,天童の法堂にて何度も拝したに違いない。帰朝の時に,その模写を将来したと推察される。そして宏智の寿像を参照して,自分の頂相を写したであろうと考えられる。宏智の頂相とは,ほほ同じ造形,同じ姿態であり,また,曲京の様式や払子の持ち方,そして,法被を使わないことと身体の向く角度も殆ど同様と言ってよいであろう。更に画像の構図位置も類似している。ただ道元の頂相は目線がやや右上を向き,宏智の真影はやや右下を向いていることが異なるのみである。宏智像の凝然たる面貌に対して,道元像は惜然たる風貌を示している。まさに,厳然たる古悌のような宏智と瓢逸な菩薩のような道元と喰えればよかろうか。B,師の天童長翁知浄の自賛頂相との比較について道元と如浄との師資関係と宋代禅林における嗣法の標準から考えれば,道元は如i争の頂相を携え帰るのは当たり前のことといわねばならないが,しかし,現存している天童知浄の頂相〔図cJ(大野賓慶寺所蔵)は道元将来のものではなく,同じく如浄に師事した賓慶寺の開祖である渡来憎の寂円禅師が持って来たものである。それは天童如浄の自筆の賛から明らかになっている。「永福面山和尚広録」巻25I伝」に載る「賓慶寺寂円禅師伝」によれば,I越前薦福山賀慶禅寺開山寂円禅師,大宋国人。依天童浄和尚削染,時名智環。永半祖在天童時友好。(中略)師曽侍浄和尚日,写真乞賛。和尚乃題云,坐断乾坤,全身濁露。呼作本師和尚当甚,冬瓜茄瓢。更好笑,金剛倒上梅花樹。徒弟智環乞語太白(老僧)。下有花押。此軸乃師之所自宋将来,而現今納子賓慶室中。」とあり,面山瑞方は智探を寂円のこととし,寂円が如浄によって剃髪得度して智環と名づけられたとする。そして,如浄に随侍中にその頂相を写して知浄より題賛を得,自ら南宋より将来したもので,賓慶寺現存の如浄頂相であると断定している。如浄の頂相と自題した賛から見れば,面山の述べた経緯は,信じられるものであると思う。如浄自賛頂相は正真正銘の南宋画であり,宏智像,道元自賛頂相とは,画風的な一致を示している。自賛の書は南宋時代の風格に満ち,蘇東坂,黄庭堅の書風を受け-263-

元のページ  ../index.html#272

このブックを見る