鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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1255号所載)において,吉州府泰和の請氏という一族のような数代にわたって肖像画た豊厚な字体は堂々たる禅者の頂相ととても合致している。如浄の自筆は道元に付した嗣書も残されているが,書そのものから見れば,疑いの余地がある。天童宏智正覚禅師の碑刻頂相と天童長翁如浄の自賛頂相,そして道元の自賛頂相を並べて観てみれば,一目で感じられることは,同時代の臨済系の頂相と明らかに違う。その相違について,以下に述べてみよう。多くの臨済宗の頂相は,絢澗たる法被を懸けた背の高い椅子(曲末)に,扶坐している姿が,画面に大きく描かれており,坐像は大凡,三分の二を占め,そして,画面上端の三分のーの空白は綿々たる賛が埋め尽くされているのがよく見られる。京都東福寺に所蔵される無準師範頂相〔図1]と京都正伝寺に所蔵される冗庵普寧頂相〔図が全画面の中で約二分のーの割合で配され,その上の半分に賛が施された。簡素かっ疎放な構図で静寂な黙照禅の雰囲気が漂う。それと逆に,臨済宗の頂相は鋒々たる風貌を呈し,荘厳な法被,曲京,沓台を有し,更に,両手に払子か警策を持ち,時として,柱杖が椅子に立てかけられる。のちの一休宗純の場合には長い朱太万が立てかけられている。そして臨済の覇気が全画面に溢れている。それはなぜであろうか。一つは,臨済宗の勢力は,はるかに曹洞宗より強盛であり,政治上の支持も圧倒的に強かった。もう一つは画工の画風の問題が考えられる。つまり,都の臨安府(杭ナト1)と慶元府(明州,現在の寧波)の画工の頂相の製作の画法が相違しているのではないかと思われる。周知の通り,宋代では喪・祭での陳列の中に肖像画が使われることはごく普通であり,伝神画家も各地に大勢いる。しかし,北宋が滅亡後,江南の杭州、|を都とし,北方の皇族,土族が南移の際には,北地の文芸,風習なども杭州に流れ込むことになる。その臨時の都杭州では,北地の文化と融合されることになった。しかし,地方都市としての明州は,ある意味で純然たる江南文化を保っている。そういうわけで\壮麗な北方伝神画と淡泊な南方伝神画とが対断、的に存在していたかもしれない。海老根聡郎氏は,I泰和の請氏ーある伝神一家-J (r国華』第家として活躍した専門画家は多くいたと指摘されている。当時の中同では各地がそれぞれの画風を持っていたのは間違いないであろう。私は,天童山周辺に活躍していた伝神画家と都の杭州(径山,霊隠,浄慈諸寺)に活躍していた伝神画家とは,かなり画法が異なっていたのではないかと確信している。2 Jを見れば,歴然としている。しかし,宏智,如i争,道元の三幅は,清清しい坐像264

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