鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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る。この如浄の真影は,道元の存命中にあったかどうかは考証できないが,しかし,上述した賓慶寺所蔵の観月像とはなんらかの関連があると思われる。というのは,そのような半身像の形式は,列祖像としてよく使われており,唐代以後に成立した頂相形式の画像より古い形であり,中国古代は祖廟や霊堂における祭礼に用いたと考えられている。その故,広義に言えば,禅僧の肖像画としては,頂相形式と半身像との二種類があって,つまり「掛真jとしての全身像と古式の列祖像としての半身像があった。頂相形式は高い殿閣の寺院に使われ,一般社会では,早い時代に半身像が日常的に行われた。のちに禅林ではそれを兼用し,混同して「頂相」と呼ぶことになったのではなかろうか。有名な半身像としては,京都妙智院所蔵の無等周位筆,夢窓自賛の夢窓疎石像〔図5) (1349)がある。半身画像の中では,もっとも優れた作品である。以上,道元の自賛頂相と観月像をめぐって,中国曹洞宗の天童宏智正覚禅師碑刻頂相と天童如浄禅師の自賛頂相及び清拙正澄題賛の如浄半身像などを関連させて論述してきた。それらの頂相の特質は臨済宗の頂相との比較を通じて,明らかにしたのである。もちろん,推測の域を出ない論もあるが,それについての実証的な考察は今後の研究に譲りたい。そして,道元の頂相は,日本全国各地に数多く残されているが,これもこの小論では,紙面の関係から割愛することにした。(二)二祖孤雲懐英禅師の頂相と太祖埜山紹瑳禅師の頂相について建長5年(1253)8月28日に道元禅師が示寂した後,孤雲懐英禅師(1198-1280)は永平寺の二代目となり,僧団統理の重責を一身に担い,弟子の徹通義介らと共に,道元の真風を大きく流布したのである。周知の通り,道元の原始僧団は,主に叡山に潰された大日能忍の日本達磨宗の徒衆たちが集まったものである。懐英,懐藍,義介,義手,義演などの達磨宗からの参入によって,道元門下は多くの優れた人材が揃い,後,北越入山への開拓にも,越前出身の懐藍,義介の慾掻に起因したであろうと思う。さらに達磨宗の波著寺の位置が永平寺とそんなに遠く離れていなかったということから考えてみれば,道元の僧団は,元達磨宗の人々に左右されていたことが想像できる。いくら道元の薫陶を受けたといっても,史実の上では,彼らは達磨宗との関係を容易に絶つことができなかった。それは,後に僧団分裂がヲ|き起こされ,義介の達磨宗徒が加賀大乗寺に移錫の契機とな266

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