(1) 二祖孤雲懐突の頂相ったのであろう。その達磨宗の法統は,最後義介の弟子埜山紹瑳の手によって,決別を告げたのである。しかし,永平寺は五世義雲から,寂円派の傘下に入ったとはそのような因縁があったからと看取すべきであろう。とても興味深いことは,元々臨済宗法統に属した日本達磨宗の孤雲懐英,埜山紹瑳の頂相は宏智,如浄,道元のような頂相と違って,壮麗な装飾を設け,濃厚な色彩を敷いた臨済風の頂相様式である。その変化は,やはり思想的な根底の中に潜在していたのか,それとも,懐奨らの作意,趣味によるものなのか,断言できない。二祖孤雲懐実禅師の頂相〔図FJは,愛知県一宮町にある曹洞宗松源院という古剃に襲蔵されている。本来ならば,その頂相は永平寺の祖師堂に秘蔵されるべきたが,なぜ、遠く三河の地に流転されたのか,その経緯についてはよくわからない。一説では,明応以前,永平寺の財政は一度ごく困窮な状況に落ち,多くの寺宝が債主の手に流出したという。その頂相もそのときに永平寺から流失したのではないか。松源院の現住職戸田俊晴氏によると,その頂相は明応四年乙卯(1495)松源院開山大中一介禅師と共に入寺してきたという。松源院の縁起古文書に開山が二祖国師の真影と道元禅師の御袈裟を長嫡の弟子の有玉に附嘱したと記載があったと怪詩な表情で解釈して下さった。いずれにせよ,その頂相は,かなり古いもので,臨済宗の頂相の影響を色濃く受けていることは言うまでもない。高い椅子に鳳風文様の金欄の法被が掛けられ,八角の環の付いた袈裟を着け,両手に払子を持ち,顔は右に向き,端然として扶坐し,座下は大陸風の僧睦を四角の沓台に並べている。賛語は自筆によるもので,墨蹟が模糊としている。賛は「未破草軽見本身,従来赤脚学唐歩。人中第一極非人,罪業所感醜阻質。」と七言の詩を以って題している。上述した達磨宗の諸因縁から考察すれば,孤雲懐突の頂相は濃厚な臨済系の頂相様式が見られることは,決して何の不自然でもない。(2) 太祖埜山紹瑳の頂相太祖常済大師と尊称された曹洞宗第四代目の蓋山紹瑳禅師(1268-1325)は,永平三世徹通義介の法を嗣ぎ,能登の洞谷山永光寺を聞き,門下には明峰素哲,峨山詔碩-267-
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