十269-に移錫することになったのは,確かに永平の法統に対するこれ等の人々の内部的車L離によって,僧団を分裂に導いたきっかけであろう。その故に,徹通義介は,永平寺の第三代目になったにもかかわらず,古い頂相は保存されなかった。現存しているのは永平寺五十代玄透即中禅師(1729-1807)が1802年道元禅師五百五十年大遠忌に当たるために作られたものであると思う。加賀の大乗寺に秘蔵されている義介の頂相〔図HJがあり,画像の構図は明らかに道元の自賛頂相を模倣したもので,ただその賛は,考える必要がある。賛の内容は「古業受生難各別,即身是f弗有何疑。従来倶口未知面,今日口看非我誰。書子時嘉元丙午正月日比丘藍徹通奥哲侍者永享甲寅秋八月,祖英拝書jと,義介禅師の自賛の語と祖英和尚の識語が,八行を以つでしたためられている。その賛語から出た紀年は,嘉元丙午,すなわち嘉元四年(徳治元年,1306)のことで,義介が八十八歳のとき,つまり,九十一歳で遷化する四年前,孫弟子の明峰素哲禅師(当時三十歳)に与えた自賛の画像を,永享六年(1434)8月に,祖英和尚が識語したものが,いま金沢市大乗寺に伝えられている。それは石川県指定文化財に認定されている。しかし,疑わしいのは,その二つの記された年号が,百三十年程はなれ,また,どうも二人の手で書かれた手跡には見えなく,おそらく,祖英という僧によったものであろう。その第六行目にある比E藍徹通という署名もちょっと問題がある。祖英という人物は,おそらく明峰派につらなる永光寺第五世,能登法永寺第三世の菊堂祖英であろうと推測される。]頁相は,宏智,道元の頂相様式で,法被,柱杖などの荘厳具は一切使わず,大陸風の曲京に冗然として駄坐して,左手は曲最を握り,右手は払子を持ち,顔は道元自賛像より顎が前に出ている。座下は僧履を楕円形の沓台に並べて置いている。簡素な構図で,道元の自賛像に模倣して作られたのか,もしくは,義介が入宋したとき,天童山にてそのような頂相をいくつか拝見して,作意的に画工に描かせたのか,判断できない。しかし,その作品は,祖形によって作られ,曹洞宗頂相に固有な枯淡,孤高な風貌を再現し,誠に興味深く感じられるのである。上述したように,初期曹洞宗僧団は多くのもと達磨宗徒が参入したため,道元没後,宗門相承の本源と僧伽帰崇の主体などに対して多くの動揺があったことが察知されるのである。そのような混沌状況は,やっと埜山紹瑳禅師に至って,元応元年(1319)永光寺に五老峰が建設されたことによって,初めて,師の義介より授けられた達磨宗の嗣書などを五老峰に埋め入れ,道元の法統の三国相承を明らかにし,宗門の一統を樹立した。その聞にわたる動静は,多くの研究があり,ここでは,省略する。ただ,
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