鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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史料によると,貌晋以来敦埋には,張,李,曹,索等の漢民族の豪族がいたが,同時期に,敦煙で隠棲して講学を行った張換,宋行,索襲,郭高らには百から千人ほどの生徒がおり,本を著し,学説を立てていた。宋紹祖は漢民族である宋行一族出身の可能性が高い。一方,大同智家壁墓では,墓誌が発見されなかったが,その壁画上の人物がすべて鮮卑族の装束で表現されていることから被葬者は鮮皐族出身であることは間違いない。漢民族の宋紹祖墓には,北壁に正面向き墓主像はないが,鮮卑族の智家壁墓には,北壁(奥壁)に正面向きで,しかも鮮卑族の装束の墓主夫妻坐像が描かれている。漆棺画北貌時代には漆棺の上に墓主像が描かれている例もある。中でも,固原北貌墓の漆棺画(注42)がよく知られているが,田原北貌墓は寧夏固原の西郊にある。単室土洞墓で,中に納められた棺には漆画が描かれている。破損していたが,後で復原されたので,画面の内容とその配置が大体分かる。棺蓋に日月,天象,奇草,瑞獣,建物に正面向きに端坐する東王父,西王母及びその侍従が,頭部の棺板に,建物に坐る正面向き墓主像,建物の両側に2人ずつ男女侍従が描かれる。両側の棺板は三段に分けられ,上段に孝子図,中段に連珠・亀背文を背景として人物と瑞獣,下段に狩猟図が描かれている。墓主とその侍従は鮮卑族の装束で表現されているので,墓主は鮮卑族出身と考えられる。棺床囲扉画北貌の代都である大岡市東南で発見された司馬金龍墓の漆絵扉風画は,北貌時代の棺床囲扉画の例の一つである(注43)。木板の漆絵扉風に帝王・将相・列女・孝子・高人・逸士などの故事や伝説が描かれている。これは,完全に漢族の伝統的な世界を表現したものであり,東晋・顧憧之の『女史能図jなどの絵巻風のものと比較しうるものがあり,例えば,扉風漆画の「班姫辞輩」は『女史飯図』の「班姫辞輩」と構図,配置などほぼ同じで,画法,椋描,彩色などもよく似ている。司馬金龍は西晋の宣帝司馬識の弟司馬撞の九世の孫で,歴代東晋につかえた。その父司馬楚之のときに東晋から北親にくだり,拓政氏に仕え,死後大将軍,司空公,翼州刺史を贈られ,さらに康王とおくり名され,北貌につかえた漢族としては最高の位に進んだ。同墓から出土した「寿埠」及び「墓表J(墓誌)によると,司馬金龍も司空,Z良部王の位に至った。司馬金龍は太和8(484)年に没したが,墓の構造及び出土品に-19 -

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