鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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は,この天使が大天使ミカエルであるとの記述は無いが,同『黄金伝説J中の「聖ミカエル伝」においては,この天使が大天使ミカエルであること,そして,この出来事の後,聖グレゴリウスがこの天使の現れた場所に教会を建立したことが記されている(注15)。これらの記述から,ベストの終需を祈願する行進において,件の「聖母図」が人々の祈りを天に告げる「仲介者」として用いられ,更にその終鷲に際して大天使ミカエルが大きな役割を果たしたことが分かる。大天使ミカエルが登場するベストの際のこの逸話は,14世紀になると,度重なるペストの流行を機会として,他の「聖母図」にも結び付けられるようになる。例えば,ローマ,サンタ・マリア・イン・アラチェリ聖堂内の「聖母図」は,1348年のベストに際して催された行進に用いられたとされるが,同聖堂に残る文書(1379年以降)によれば,I聖母図」を伴うこの行進が「天使の城Jを通過しようとした時,当時城の頂に置かれていた大天使ミカエルの大理石像が聖母図に向かつて脆いた(注16)。ヴォルフによれば,I聖グレゴリウス伝」中のエピソードを基とする,ベストの際の行進と聖なる図像との関連性,あるいは聖なる図像の利用は,ローマに限られる現象ではない(注17)。マツテオ・ヴイツラーニの年代記によれば,フィレンツェにおいても,1351 年には既に同地のサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂の「聖母図」とそのために召集された俗人による信者会の存在が知られていたことが分かるが(注18),ここで再び\オルサンミケーレ聖堂のオルカーニャ作タベルナーコロに戻るならば,そこにもまた,剣を持って頂きに立つ大天使ミカエルの像と病気治癒の力を持つと信じられていた寄蹟の「聖母国」が存在するのである。既に述べたように,このタベルナーコロは1348年のペストの後に計画の進められた作品であると同時に,その注文主である「オルサンミケーレの聖母信者会jにはペストを機として多額の奉納金が納められていた。これらの背景から筆者は,このタベルナーコロが独自に持つ図像の一つである大天使ミカエルもまた,ベストと密接な関わりを持つ上述の逸話を反映しているのではないかと考える。つまり,オルカーニャ作品における大天使ミカエルは,1348年のベストを鎮めた者として,新たなタベルナーコロの頂きという極めて特殊な位置に剣を手にして立つように考案されたと解釈できないだろうか。確かに,オルサンミケーレの小麦市場は,その名が示すように,元来は大天使ミカエルに捧げられた教会であり,教会が小麦市場に変えられた後も,大天使ミカエルの像が聖像として崇められていたことが,1294年に編纂された信者会の会則集から分かる(注19)。しかしながら,この聖画

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