~280~ 27) ,後にオルサンミケーレの信者会のメンバーとして活躍した詩人サッケッティ(1323頃1400頃)は,自作の詩において,この聖母を主とキリストへの仲介者として像は,おそらく1304年の火災において焼失されたと考えられ(注20),以降,オルカーニャ作品に大天使ミカエルが登場するまで彼の存在が特別に強調された形跡は無い。実際,1333年に再編纂された会則集においては,この聖像に関する記述は登場せず,病気治癒の奇蹟を起こす「聖母の板絵」のみが強調される傾向にある(注21)。従って,1350年以降に再び、大天使ミカエルの存在がタベルナーコロの頂点で強調された背景に,ベストの鎮静に大きく関連する彼の役割を想定することは可能であろう。そして,この「聖グレゴリウス伝Jあるいはサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂の「聖母国」との繋がりを考慮することで,実は,先行するタベルナーコロとオルカーニャ作品との第二の相違点として挙げた「聖母被昇天」図の強調の説明もまた可能となるのである。この「聖母被昇天j図に注目し解釈を加えたこれまでの研究はカッシデイによるもの以外にはほとんど為されていないが,彼によれば,この場面は,1350年から51年にかけてフィレンツェとミラノとの聞に起こった軍事的衝突の危機が,1351年8月15日の聖母被昇天の祝日に回避された記念とされる(注22)。しかしながら,ここで詳細に論じる余裕はないが,1348年のベストとの関連から本作品を解釈するならば,クライテンベルクも指摘するように(注23),本作品における「聖母被昇天」の場面は,このような個別的事象の反映というよりもむしろ,信者のための「仲介者Jであるが故に称えられ,昇天することによって神格化される聖母という「聖母被昇天Jについての古くからの概念を表したものと捉えるべきではないかと筆者は考える(注24)。ローマ,サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂においては,ペストの際に仲介者として頼られ,人々のために奇蹟を起こした「聖母図」を称える儀式が古くから「聖母被昇天jの祝日に行われ,先に参照した信者会の会則集においてもこの祝日が重要視されていた(注25)。一方フィレンツェにおいては,Iオルサンミケーレの聖母信者会」の1330年編纂の会則集が,I聖母被昇天」の祝日のみを特別に重要視してはいないのに対して(注26), オルカーニャ作品の設置以降この聖母を仲介者として称える傾向が顕著となる。デル・ミリオーレによれば,I聖母被昇天」の祝日の二日前にあたる1365年8月13日に,フィレンツェ共和国政府は,オルサンミケーレの聖母を「町の仲介者」と宣告し(注称えている(注28)。従って,オルカーニャ作品における「聖母被昇天」図の強調の背
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