(3) 南朝時代は,鮮卑的なものはまったく見出すことができず,ただ漢民族の伝統的な文化を語るもので満ちていることは興味深い。以上,北謀時代における壁画墓,石惇壁画墓,漆棺画,また棺床囲扉画などさまざまな素材について,その被葬者の所属民族を検討してきた。まとめると,北説時代には,漢民族の出身者である王温,宋紹祖,司馬金龍の墓葬の中には,正面向き墓主像が描かれていないが,鮮卑族の大同智家壁墓,固原北説墓に正面向き墓主像が描かれていることが分かる。さて,この結論に基づくと,前述した伝世品である天理大学附属天理参考館と和泉市久保惣記念美術館の「風俗図」囲扉が納められえた墓葬の被葬者の民族出自が分かる。つまり,墓主夫妻の対坐像が描かれている天理参考館の囲扉のあった墓葬の被葬者は漢民族の出身,別々の枠内に正面向きに端坐する夫妻像が描かれている和泉市久保惣記念美術館の囲扉のあった墓葬の被葬者は北方系民族の出身者であると推定できる。前述したように,南朝の領域では,壁画墓は極めて少ないが,碍画墓は幾っか発見されている。中でも,西善橋宮山墓(注44)は劉宋の孝武帝劉駿の景寧陵,西善橋油坊村(注45)は陳の宣帝陳項の顕寧陵,仙塘湾墓(注46)は南斉景帝粛道生の修安陵,金家村墓(注47)は明帝粛鷲の興安陵,呉家村墓(注48)は南斉最後の和帝粛宝融の恭安陵に比定される。これらの碍画墓の画材は主に「竹林七賢・栄啓期図jが中心であり,墓主に関する画像は一切ない。一方,南京周辺で,両漢以来の伝統的な題材は鎮江市郊外農牧場で発見された東晋晩期,4世紀末の398年の墓にまだ残っているが,南朝に入ると消えてしまって,代わりに玄学的彩色が濃い「竹林七賢・栄啓期図jが中心になることは興味深い。以上,正面向き墓主像は北方系,特に鮮卑族の出身者の特徴であり,漢民族の出身者は伝統的な側面向き墓主像を描き続けているか,或は墓主像を描かないことが明らかになった。正面向き墓主像は北方系民族,特に鮮卑族の漢晋以来の伝統的な墓葬壁画に対する新しい解釈に基づく産物といえるcそれは時代的,また民族的な共通性をもたない特殊なものとも言える。-20-
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