鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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社組織で経営されていた。実質的な活動は5~6人のダイレクターによって運営され随一の画廊」と言われるほどになった(注1)。同ソサエテイの活動の幅の広さと革新性を示す例の一つはオリジナル版画の出版事業である。複製版画全盛期にあって,オリジナル版画の芸術的価値を再評価する「エッチング・リバイパル」の革新的な運動に共鳴し,積極的に展覧会で紹介し新しいオリジナル版画を出版した。1879年にはセイモア・ヘイデン所蔵のオリジナル版画のコレクションを展示,1882年には「第一回画家版画家協会展」を開催している(注2)。また,絵画に目を転じてみると,評価の確立した大家だけでなく,時代の先端を行く作家たちを積極的に支援した点に同様の方向性が見てとれる(注3)。つまり,同ソサエティが扱う画家の中には,ターナー,ハーコマー,レイトン,アルマ=タデマなどのアカデミシャンだけでなく,ラファエル前派やホイッスラーなど革新的な作家たちもいた。同ソサエティーは,ラスキンのいわゆる「インク壷」発言に対する訴訟で破産したホイッスラーを援助し,ヴェネチアでの版画制作を委嘱して帰国後「ヴェネチア・セット」として出版したことが知られている(注4)。また,地下一階地上二階の3フロアーを使って毎月1~ 2本聞かれる展覧会も,質の高さや教育的内容において際だ、っていた(注5)。特に展覧会ごとに出版された,専門家による解説を掲載したカタログは資料的価値が高く,当時としては画期的な試みだったと評価されている。展覧会の内容は,初期には版画,絵画,素描が中心であったが,やがて,彫刻や工芸などへも領域を広げていった。テーマとしては,イギリスの風景画,植物画,動物画,そしてアジアやアフリカを題材としたオリエンタリズムの絵画の展覧会も盛んに聞かれた。グロヴナー・ギャラリーやアグニューなどヴイクトリア朝の有名な画廊の多くが個人または家族経営だったのに対し,ファイン・アート・ソサエティは設立当初から会るが,その長であるマネージング・ダイレクターの初代となったのがマーカス・ブーン・ヒュイッシュだった。ファイン・アート・ソサエティがオールド・マスターから前衛的な芸術活動まで,そしてイギリス絵画からオリエンタリズムの絵画まで,多岐にわたる活動を展開することができたのは,美術評論家として確固たる視点を持ち,ロンドンの美術界に精通していたヒュイッシュの功績に負うところが多いと考えられている(注6)。

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