第三節魂晋時代の正両向き墓主像これまでの分析から,南北朝時代において正面向き墓主像が描かれる壁画墓の被葬者は北方系,特に鮮卑族の山身者であることが明らかになったが,貌晋時代の情況を検討する必要がある。説晋時代の正面向き墓主像を確認できる壁画墓は北京市石景山区八角村墓(注49), 上王家村墓(注50),嚢台子壁画墓(注51),太平房村壁画墓(注52),北廟村1号墓(注53),雲南昭通壁画墓(注目)などである。『晋書』旬奴伝にみえる侍御史郭欽の上書と,同書の江統伝に見える江統の「徒戎論」によると,後i莫末から説,晋初にかけて,東北辺境からも北辺からも,あるいは西北辺境からも五胡の遊牧民族が次第に中国内地に集団的に漕住しつつあった。また,西晋末の「八王の乱」によって,中国の北方地方は完全に亙胡の紛争状態になったが,北京は華北地方の最も北の地域であり,石景山区八角村墓では,墓主{象自体の服装が北方民族のイメージを強く感じさせ〔図壁に,堂に坐る墓主像と従者が表現され〔図7J,時代は東晋の初めと考えられるが,当時の遼陽は既に鮮卑大単子を自称していた鮮卑慕容魔に占領された(注55)のであり,さらに上王家村墓の正面向き墓主像自体は鮮卑の亡命者である冬寿墓(注目)(安葬者は鮮卑族と考えたい。衷台子壁画墓は4世紀前半ごろと推定されるが,墓主図像は,伝統的に右耳室の右壁に描かれ〔図9],上王家村壁画墓と冬寿墓(安岳3号墳)の中間階段に位置づけられる(注57)。また,被葬者は鮮卑族と推定される。太平房村壁画墓と北廟村1号墓には,いずれも墓室後壁に正面向き墓主夫妻並坐像が配置され,被葬者は鮮卑族で,北燕の時期と推定される。一方,既に考察したとおり,後漢以来東北地方,特に遼陽に集中している漢民族の壁画墓には,いずれも墓主夫妻の対坐像が描かれ,正面向き墓主像が一切みられない。また,同時代の西北地方における約36基の壁画墓には,すべての墓主像は動的な生活場面の中に側面向きに描かれている。中でも,敦虚偽爺廟湾133号墓,37号墓,39号墓(注58)に右耳室奥壁(133号墓)や墓室奥壁(37号墓,39号墓)には大画面の椎慢垂障図が描かれ,その下に供台が置かれているが,墓主の姿は描かれていない〔図10,l1J。五涼時代になって敦埠併爺廟湾1号墓(注59)で惟帳垂障の中に墓主像が号場したが,6 J,その被葬者は北方民族,特に鮮卑族と考えられる。上王家村墓は右耳室の正面の岳3号墓)の正面向き墓主像〔図8Jに類似することも指摘されていることから,被21
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