薦状ではカタオカは学者(Scholar)と呼ばれ,大英博物館を初めイギリス各地にある日本美術コレクションに詳しいと書かれている。おそらくカタオカという人物は,美術商であると同時に日本美術の専門家として認知されてもおり,ヒュイッシュと類似した立場の日本人だったので、はないかと思われる(注15)。1890年の「北斎」展では,200点余りの浮世絵,肉筆画などが展示された。現存する販売記録から,短期間にかなりの数の作品が売れたことがわかり,この展覧会の成功の程がうかがえる(注16)。この展覧会とヒュイッシュ自身が執筆したカタログは,パリでビングの論文「北斎の生涯と作品」やエドモン・ド・ゴンクールの『北斎Jなど北斎関係の論文が立て続けに出版された1896年に先行する点でも注目すべきだろう(注17)。イギリス人による日本をテーマとした作品の展覧会は,1890年「アルフレッド・イースト,日本の風景(ALFREDEAST RT, Pictures and Drawings of the Landscape of Ja-pan) J, 1893年「アルフレッド・パーソンズ,日本の風景と花(ALFREDPARSONS RI, Watercolours illustrating Landscapes and Flow巴rsin Japan) j, 1908年「エラ・ドュケイン,日本の水彩画(ELLAdu CANE, Japan Wat巴rcolours)j, 1910年「ワァーウイツク・ゴーブル,日本のおとぎ話(WARWICKGOBLE, Watercolours illus佐atingJ apanes巴FairyLegends) jなどが挙げられる。イーストは,ファイン・アート・ソサエテイから日本の風景画を描くことを委嘱され,チャールズ・ホーム,アーサー・レイゼンピー・リパティー夫妻らとともに1889年3月に日本に渡り9月まで滞在して各地で制作した。イーストは,滞日中に日本の洋画家たちと交流をもち,日本の水彩画の発展に影響を与えたことが知られている。また,パーソンズは,主に植物の水彩画を制作するために1892年に日本へ派遣され日本で自作の展覧会も聞いた〔図3J。.マーカス・ヒュイッシュと日本美術これらのファイン・アート・ソサエティにおけるジャポニスムの活動の中心となったのが,マーカス・ブーン・ヒュイッシュ(1843-1921)だ、った(注18)0 1.皮は1843年に弁護士の息子として生まれケンブリッジ大学で学び1866年法学士の資格を取得,翌年法廷弁護士となった。しかし,水彩画を描き,オールド・マスターや日本の美術品,イギリス水彩画などの収集家であった彼は,法廷よりも美術の世界で生きることを選び,1876年にファイン・アート・ソサエティに就職するまでには美術評論家としての291
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