鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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地位を確立していたといわれる。その後1919年までファイン・アート・ソサエテイで仕事をする傍ら,r美術年鑑(TheYear's Art) j (1880-93), rアート・ジャーナル(TheArt Journal) j (1881-93),ジークフリート・ピングの『芸術の日本(L巴JaponArtistiqu巴)j の英語版(ArtisticJapan) (1888-91)など雑誌の編集長として活躍した。さらに,ターナーの原画による版画集『セーヌ}IIとロワール川(TheSeine and the Loire) j (1886)をはじめ多数の美術書を出版し,また美術雑誌に様々なテーマで寄稿した。ヒュイッシュは,画商としてだけではなく,研究者,コレクターとして日本美術と関わった。研究者としての業績は,i日本の美術」展や「北斎」展などファイン・アート・ソサエテイの展覧会カタログの巻頭論文や解説の執筆,r日本とその美術(Japanand its Art)j (1889), rトレヴォー・ローレンス卿収集の日本美術品(Catalogueof th巳Coll巴ctionof Japanese Works Formed. . .. by Sir Trevor Lawrenc巴)j (1895)など美術書の執筆と出版,大隈重信[開国五十年史(FiftyYears of New Japan) j英語版(1909)の編集,rアート・ジャーナル』などの雑誌への日本美術関係記事の執筆があげられる。ヒュイッシュの日本美術コレクションの全貌は不明だが,1888年の「日本の美術」展には数十点の金工品を出品している。また,同ソサエテイの販売記録には購入者欄にしばしばヒュイッシュの名前がみられ積極的に日本の美術品の収集を続けたことがわかる。また1919年にはヴイクトリア・アンド・アルパート美術館に12点の万の鍔を寄贈しているが,各時代の様式を代表するよう厳選されたその作品群は,彼の鑑識眼の確かさを伝えている(注19)。彼はまた日本協会(Japan Society)の創立会員であり,役職を歴任した後1919年から1921年まで会長をつとめた。日本協会に幹部として深く関与したことは,ヒュイッシュにとって日本美術が特別重要なフィールドだったことを物語っている。-日本協会とファイン・アート・ソサエティこの日本協会の設立の経緯をたどってみると,ブアイン・アート・ソサエティとの関連が浮かび、上がってくるだろう。日本協会の前身は1880年代に盛んであった「ジャパン・ディナーJだと言われる。日本に関心のある人々が定期的に集まって開催した晩餐会である。その参加者が中心となって,英国内において日本研究を促進し日本文化の理解を深めることを目的とする団体「日本協会Jが1891年に設立された。第I回目の会合で初代理事長に英国公使館付医務官で日本絵画コレクターのウィリアム・ア-292-

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