鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
302/670

19日年の日英博覧会の時には,日本美術の専門家として企画や展示を担当した。また,ンダスンが,会長に駐英日本公使河瀬真孝子爵が選出された。また理事のなかにはアーサー・レイゼンピー・リパティー,アルフレッド・イースト,そしてマーカス・ヒユイッシュなどの名前が連なっており,ヒュイッシュがロンドンのジヤボニスト・サークルの核心部分にいたことがわかる。また,設立当初の会員数は124名で,その中にチャールズ・ホーム,クリストファー・ドレッサー,アルフレッド・パーソンズ,モーテイマ・メンベス,フレデリック・レイトン,アルマニタデマなどファイン・アート・ソサエティの顧客や出品作家の名を見つけることができる(注20)。また,1892年にはヒュイッシュの推薦によってジークフリート・ピングや,林忠正が通信会員となっている(注21)。彼は日本協会を通じて,これらの人物とのコネクションを深めることができたはずである。日本の美術品や工業製品の展示は日本協会の目的のーっとして掲げられており,ヒュイッシュはそのための協力を惜しまなかった。1905年の「日本の武器,甲胃j展や同協会の例会では日本に関連する講演会が聞かれた。ヒュイッシュは,I日本の古美術へのヨーロッパの影響(TheInfluence of Europe on the Art of Old Japan) J (1895), I根付けの発展(TheEvolution of a N巴tsuke)J (1897), I玩具のコレクシヨン(ACollection of Toys) J (1904), Iイギリスにおける日本美術の受容について(England's Appreciation of Japallese Art) J (1907)という内容で講演をし,その内容は『紀要(Transactiollsand Proc巴edingsof The Japall Soci巴ty,LOlldoll) jに収録された。ヒュイッシュにとって,日本協会はイギリスのジヤボニストや日本人たちとの鮮を深め,情報を収集する場であると同時に,また協会での展覧会や講演会などの普及活動を通してファイン・アート・ソサエテイの顧客を開拓することができたのではないかと思われる。.ヒュイッシュの日本美術観ヒュイッシュの数多い著作のなかでも代表作といわれるのが先に触れた『日本とその芸術j(1889)である。それは『アート・ジャーナル」誌に連載された1888年の日本美術展についての連載記事「日本とその美術品についての覚え書きjを編集したもので,I日本の美術の背景となる歴史や風俗,宗教について説明する」ハンド・ブックとして出版された(注22)[図4J。本の構成は,I漆器JI金工JI浮世絵」などジャンル293

元のページ  ../index.html#302

このブックを見る