鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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側面向きに表現された墓主夫妻の対坐像である〔図12J。これらの墳墓の被葬者はいずれも漢民族と考えられる。つまり,東北地方で登場した正面向き墓主像は鮮卑慕容族の独自な特徴で,それ以前,また同時代の漢民族の墳墓に見られない。以上,説晋南北朝時代における正面向き墓主像の民族性を考察してきたが,すべては北方系民族,特に鮮卑族の出身者の墳墓に描かれていることが分かる上に,漢民族出身者の墳墓に描かれていないことも確実である(注60)。結論以上に基づいて,地理的分布を見れば,正面向き墓主像のある壁画墓は殆ど北方地方にあり,しかも貌晋南北朝時代における北方系民族政権の管轄範囲以内,即ち東晋十六回時代における慕容鮮卑の朝陽,遼陽,北説の大同,田原,及び東魂北斉の済南,太原,磁県などの地域にある。一方,正面向き墓主像は4世紀前半の鮮卑族壁画墓に登場したが,東説北斉時代の終罵と共に,歴史の舞台から消えてしまった。現在まで発見された約80基の惰唐時代の壁画墓には,正面向き墓主像が一切ない(注61)。つまり,正面向き墓主像の存在年代は,まさに4世紀前半から6世紀後半までの南北の分裂時代に当たる。惰唐の統ーにともない,文化に対する解釈も統一され,正面向き墓主像のような民族的色彩の濃い文化現象は完全に陪唐文化に吸収されてしまったのである。中国文化は数百年の歴史を経て,さまざまな民族と文化を融合し,ついに盛唐の華やかな文化を迎えることになる。つまり,正面向き墓主像が民族性をもちながら,地域性と時代性も強いことが分かる。墓主イ象は中国古代墓葬壁画における非常に重要な画題であるが,漢民族の墓葬壁画において,墓主像は側面的で動態的な形で,通常墓主の昇仙,或は昇仙後の日常生活が描かれている一方,正面向きで表現されるもののすべては神仙世界の主宰である西王母,また東王父である〔図13J。よって,正面向き墓主像は周辺,特に北方系民族が漢民族の伝統に対して新しく解釈した結果であり,文化交流における変異現象であると考えられる。神様の正面向き姿をもって墓主を表現するのは,単なる表現形式上の変化だけでなく,まさに墓主像を神格化(注62)する行為で,墓主が神になることを願っていたのである。その理由は,漢民族の神仙思想、の影響以上に,仏教,特に仏教図像の中国への伝来と直接的な-22-

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