鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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本所羅漢寺で、見物人が群れを成すなか,大きな浬繋図をたちどころに描き,その名を大いに高めた,とある記述に注目したいと思う(注12)。敬輔が師事した古欄も,たいへん大きな絵を描くことに巧みであったことが,岡田樗軒『近世逸人画史.!(1824)の古閑和尚条に言及される(注目)。京都・泉涌寺の浬繋会の際には,縦の長さが16m以上ある古欄の「大浬繋図」が本堂に掛けられ古硝の大画制作の状況を今に伝えている。人々が驚くような並外れた大きな絵を描くことは,のちの時代では北斎の達磨図が有名で,文化元年(1804)江戸・音羽の護国寺本堂前の庭において,北斎は見物人を前に120畳敷の大きな紙に大達磨を描いた。飯島虚心『葛飾北斎伝.!(1893)では,北斎以前に大きな絵を描いた者として,古欄と敬輔の名を挙げている(注14)。敬輔が大画面制作において優れた力を発揮することを確認したが,大きな絵を描くという行為そのものや,構想力,表現力を古硝からの継承性のなかに捉えてみる必要があると考えられる。また「略伝Jには敬輔がしばしば京都を訪れ,東山の小松谷に滞在して慈光和尚と親しくし,寺の障壁画を皆描いたと記録される(注15)。小松谷というのは,当初,平重盛の別邸・小松殿があったことからついた地名で,平家没落後は,九候兼実が山荘を構えた。現在この地には浄土宗・正林寺がある。正林寺には歴代住職の伝記が伝わっており,次代が先代の事跡を記録するというかたちで,現在まで書きつづけられている。敬輔と親しくしたという三代目住職・慈光和尚の記録を確認できた(注16)。記録によると,元文5年11月から延享2年4月までの6年間(1740-45),慈光和尚は小松谷・正林寺の住職にあった。つまり敬輔が小松谷に滞在した時期は,この6年間に絞られると判明してきた。最後に敬輔と林丘寺宮との接点について触れておく。「略伝」には皇女・林丘寺宮が,敬輔の画いた「無量寿経蔓茶羅」の図中に章段を書き入れたとある(注17)。敬輔が原図を描き版行した「無量寿経是茶羅」の右隅には「無量寿経蔓茶羅併流通文者林丘寺宮松領元秀尊尼御筆」とあり,図中の章段を林正寺宮・松領元秀尼が書き入れたことが既に知られる。松領元秀尼は霊元上皇の皇女,つまり後水尾法皇の皇孫にあたり,林丘寺二代尼門跡となる人物である。敬輔が林丘寺宮と繋がりをもつことは敬輔研究では既知といえるが,ではなぜ敬輔は林丘寺宮とこのような関わりをもつようになったのだろうか。その接点が故郷・日野の黄葉宗寺院にある可能性が見えてきた。-304

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