十305-日野の黄柴宗の本寺である正明寺は,後水尾法皇の勅願寺として高い寺格を有する。もとは天台宗であったが,荒廃していたところを,隠元より法を継いで、後水尾法皇から深い帰依を受けていた黄葉僧・龍渓性i替が,寛文4年(1664)入山し中興した。正明寺,また正明寺末寺である浄光寺は,ともに後水尾法皇,またその皇統をひく初代林正寺宮照山元唱尼,二代林丘寺宮松領元秀尼と繋がりのあったことが諸史料に伝えられる。たとえばそのひとつに,正明寺の由来・記録を五代住持・寂門律が記した「近江州蒲生県法輪山正明禅寺記J(注18)がある。その関係の深さを語る事跡を史料から抜粋すれば,寛文9年(1669)後水尾法皇が龍渓へ「正統禅師jの徽号を賜うとする記述がある(注19)。正明寺には龍渓へあてた「正統禅師」と書された寵筆が伝来し,後水尾法皇の庇護のもと,正明寺再興のあったことが改めて示される(注20)。林丘寺宮との関わりも深い。享保元年(1716)二代林丘寺宮の命を受けて,本史料を撰した寂門が住持となったこと(注21),享保4年には普明院(二代林丘寺宮へ号を譲渡した後の初代の号)と二代林丘寺宮の願により,正明寺のために素i手法皇(霊元上皇の法名)から院宣を賜ったこと,寂門がそれを受けるために院へ参じ,林丘一燈庵に宿し,普明院,林丘寺富が列座するなかで院宣を受けたこと(注22)など,正明寺が林正寺宮との繋がりを介して,天皇家からの恩遇を得ていたありさまが伝えられる。正明寺,浄光寺には,初代林丘寺宮照山元稽尼ゆかりの絵画と敬輔の描いた絵画,双方が伝来する。林丘寺宮と敬輔とを繋ぐ直接の接点は史料的にまだ見出せないが,両者のあいだには,日野の黄葉宗寺院の介在が示唆されることを指摘しておきたい。作品と伝記の双方において,敬輔について現段階で得られた調査結果をもとに報告を行ってきた。敬輔画にみられる基準的な表現,多様な面を細部もふくめ検討し,従来大画面制作にみられる奔放な側面が強調されがちであった敬輔の絵画に,繊細さ,綴密さなど,優れた面が兼ね備えられていることを確認した。また「略伝jにいわれる敬輔の大画制作,小松谷への滞在,林E寺宮との関係について,私見を提示した。情報の開示を目的としたため,ひとつの結論には至らないが,敬輔研究の充実に向けて,断片的ではあるが素材提供ができれば幸いである。
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