同I(寛文)九年己酉秋九月二十日賜大宗正統禅師徽号於龍渓和尚jの大黒と材、す,其大図に至ては余人の企て及ぶ所にあらず」(14) I按ずるに,昔時京師浄福寺の僧古澗(ママ)といふ者,大図を作るに巧なり。I工州の人高出敬輔,晩年に至り,古澗に就き,大岡の法を伝はりしといふ。従来大画は,別に一法ありて,尋常の画工の能する所にあらざるなり。北斎如何にして,其の法を知りたるや。古澗,敬輔といへども,未だ此の如き大図を画きしを聞かざるなりj同「後頻遊京畿,一時寓京東小松谷,輿主僧慈光師尤善,寺中障壁画皆其所画」制「三代常蓮社党響上人道阿慈光大和尚,(略)殿ド依召命住職,元文五庚申年十一月入院,(略)凡六ヶ年之間住職,延享二乙丑年四月大坂天王寺ノ東門蒼龍寺を建立ニテ隠住シテ開基トナル,宝暦十一辛巳年五月廿四日遷化j(17) I皇女林E尼公,尤重寿経蔓茶羅,因親書章段於図間j側寂門律撰「近江州蒲生県法輪山正明禅寺記」正明寺蔵,享保14年(1729)側正明寺再興の経緯を含め,近江における黄葉宗については,佐々木進『近江と黄葉宗の美術1栗東歴史民俗博物館,1992年から多くの教示・示唆を得た。制「享保元年丙申春三月,第五代賎字寂門承林丘寺大師命住持」凶「於先春二月,依普明院林丘寺号松嶺元秀両宮之願,為当山従素iai'法皇賜院宣ー紙,余承尊許,九月二十四日院参謝思,賜網代輿,而帰宿子林正一燈庵,三十五日両宮列坐召余頂戴院宣」-307-
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