注(1) 磁県文化館「河北磁県東親茄茄公主墓発掘簡報Jr文物J1984-4 (2) 磁県文化館「河北磁県北斉高潤墓Jr考古.11979-3 (3) 宿白「太原北斉婁叡墓参観記Jr筆談太原北斉婁叡墓Jr文物.11983-10 (4) 山西省考古研究所等「太原南郊北斉壁画墓Jr文物.11990-12 (5) 済南市博物館「済南市馬家庄北斉墓Jr文物.11985-10 関係があるのではないか。文化的拘りがなく,しかも実効を重視する北方系民族にとって,漢文化と仏教文化は同じである。大量の正面向き姿をもって表現された仏,また菩薩が彼らの日常生活に登場した時,仏国に昇り仏になる仏教思想、が彼らに強い影響を与えたに間違いない。従って,仏や菩薩が表現される正面向きの形象は,彼らの死後世界の姿,すなわち正面向き墓主像となったのである(注63)。正面向き墓主像は漢民族の神仙思想、と仏教の天国思想の,北方系民族,特に鮮卑族の死生観への反映であると言える。(6) 東貌北斉と茄茄(柔然)との聞の政治婚姻は,東魂孝静帝興和4年(541)より始まったのである。当年,高歓は常山王(拓政鷺)の妹の蘭陵公主を茄茄主阿那壊の息子に許婚し,また,次年(542),茄茄主阿那壊は自分の孫の隣和公主(茄茄公主墓の被葬者)をi高歓の九番目の息子に嫁した。さらに,茄茄主の要請で,高歓は50歳の高齢で阿那壊の娘を自ら要った。(7) r周書.1.r陪書』(8) r親書・嬬嬬伝j,r南史・嬬嬬伝.1,r北史・嬬嬬伝j,r通典』(9) r宋書.1.r南斉書・丙丙虜伝.1,r梁書・丙丙虜伝J同『晋書』ω 柔然の名は車鹿会が自称した部族名。「礼儀J,I賢明」の音訳といわれ,アヴァールに比定する説もある。王(高歓)也」とある。同『北史・斉神武帝紀』には,I斉高祖神武皇帝姓高氏,詰歓,字賀六j軍,勃海穫人也。六世祖隠,晋玄蒐太守。隠生慶,慶生泰,泰生湖,三世仕慕容氏。及慕容賓敗,国乱,湖率衆帰貌,為右将軍。湖生四子。第三子誰,仕貌,位至侍御史,坐一23-ω 『説書・高湖伝jには,I高湖,字大淵,勃海穫人也。j莫太惇衰之後。……斉献武
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