鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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イタリア出身の彫刻家では,トッリジャーノがセピーリャに彩色テラコッタの彫刻を残している。ボンベオ・レオーニは王宮で活動したため,例外的にブロンズや大理石で制作したが,彫刻の彩色にも否定的ではなかった(注4)。彩色木彫は宮廷の装飾には使われなかったが,王家と関係の深い修道院のために国王の注文で制作された。イタリアで絵画や彫刻を学んだ、スペイン人のアロンソ・ベルゲーテやベセーラも,帰国後は主に彩色木彫を制作した。イタリアではどちらかといえば画家として活動した彼らが,母国では彩色木彫作品で名を高めたのは,スペインにおけるこの分野の需要の大きさを示すものだと言えるであろう。パラゴーネがスペインにもたらされた17世紀前半においては,知識人や芸術愛好家たちが主に絵画を支持したのに対し,一般信徒の精神面の指導を担う各地の聖戦者たちは主に彫刻を支持した。説教師フェjレナンデス・ガルパンは,1615年の説教で“聖なる像においては,彫像術が非常に優位にある"と述べ,絵画を批判した。彼の言葉は,重要な聖像は彫刻で作られるのがふさわしいとする,当時の多くの聖職者の認識を反映している。しかし彼らの関心は,芸術の比較というより,むしろ聖像として礼拝する対象への好みだと言ってよい(注5)。一方で,マドリードとセピーリャを中心にイタリアの美術理論を研究していた先進的な画家たちは,一様に絵画の優位を唱えた。彼らは1633年,絵画に対するアルカパラと呼ばれる売買税の免除を全面的に勝ち取った(注6)。セスペデス,ハウレギ,カルドゥーチョらが17世紀前半に刊行した著作は,いずれも絵画の優位を主張している。彼らには,画家と同じように社会的地位を向上させることを狙った彫刻家たちを牽制しようとする考えもあったと思われる。彼らはまた,スペインにおいて主流である彩色木彫を具体的に取り扱わなかった。しかしそこには,絵画の優越性の主張という問題だけでなく,さまざまな事情が絡んでいたことも考慮しなければならない。当時のスペインにおいては,絵画であれ彫刻であれ,自国より外国のものが高く評価されており,とりわけ素材が木材であることにより,彩色木彫は美術として低く評価されていたと思われる。そして彫刻の彩色は画家の分野とみなされていたために,彩色木彫は純粋に彫刻家のみによって制作された作品とは呼べなかったことも,問題を複雑にしていた。パチェーコもまた画家である以上,絵画の優越性を主張している点ではセスペデスらと同じと言える。その理由は基本的に,r素描芸術は絵画に含まれるものであり,そ

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