4.パチェーコの目的ストファードと呼ばれる切り金装飾を施すことが主流となっていた。しかし,マテイアスはこのような慣習を悪しきものとして断罪している。彼は様式だけでなく,素材においてもイタリアを模倣するべきだと主張したことになる(注12)。マテイアスの要求は受け入れられ,コルドパ大聖堂の祭壇衝立は,近郊のカブラやlレーケで採られた大理石を素材とする重厚な建築物となった〔図4J。それは大聖堂の富と権威を示すには十分な効果があったと言える。しかし,マティアスの試みは,当時のスペインにおいて極めて希なものであったことに留意しなければならない。圧倒的に木材が多数である祭壇衝立や彫刻を手がける職人たちにとって,マテイアスの主張は屈辱的なものだったと思われる。また,マテイアスはイエズ、ス会土であったが,会の内部で不評を買い,特にパチェーコの友人ファン・デ・ピネーダと対立したことが知られる。少なくともパチェーコと親しい知識人や芸術家がマテイアスの人となりや思想に反感を抱いていたことは疑い得ない。蝋やテラコッタの彫刻を例に挙げ,形態の方が素材よりも高貴であると述べるパチェーコの姿勢は,スペインの大多数の彫刻家の立場を擁護するものであり,素材の優劣について述べるマテイアスへの反発もほのめかされている可能性がある。パチェーコはなぜこのように彩色木彫を擁護したのだろうか。その理由については,きわめて現実的に,彩色木彫を高く評価することによって自分を含めた彫刻彩色画家の地位を高め,画家組合の利益を図ろうとしたものという解釈もできる。実際,彼が『絵画芸術の実践者たちへ』を刊行したのは,サンタ・クララ修道院の祭壇衝立の制作において,彫刻家のモンタニエースが自ら彩色の契約を結び,さらに彩色画家に不当に低い額の賃金を割り当てたことに抗議するためであった(注13)。しかし彼のパラゴーネの直接の執筆動機がこの事件であったとは言えない。彼はこの時すでに『絵画論jのパラゴーネの箇所をある程度執筆しているからである。さらにその後10年余りをかけて脱稿した『絵画論』では,むしろ彩色木彫にたずさわるスペインの彫刻家たちを擁護する姿勢が目立っている。パラゴーネの箇所でも,同時代の芸術家の名では,画家よりも彫刻家の名の方が多く挙げられ,また作品についても具体的に述べられている。また,セピーリャの彫刻家たちがパチェーコに意見を述べたことが暗示されている。これはパチェーコの中立的な態度を表すものと言えないだろうか。序文にも述
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