鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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~324~ ⑮福岡平野と異風ある菩薩像一一小田観音堂の千手観音立像を中心に一一研究者:九州歴史資料館学芸員井形福岡平野は福岡県の北西部,玄界灘沿岸に広がっている。海原を聞に介しながらも,大陸や朝鮮半鳥と向き合う福岡平野は,遥かな昔から近代に至るまで,列島内における大陸との交流の最大の窓口であったし,日本国家成立の後はまた,九州地方統括のための要所としての役割を課せられることともなった。そのような性格を映し出す遺跡が,平野の地下には,重なり合い密に連なっていることが,多くの発掘調査によって確認されている。地上に古の面影を伝えて姿を見せる史跡も,当地で暮らす人にとっては日に慣れた存在である。そして,盛衰の波を経て今なお,かつての威容を偲ばせる著名な寺社もまた,少なくはない。仏像を勉強している立場から言えば,海へと向かった広がりが,内陸へと向けて収蝕してゆく福岡平野の南の奥,太宰府に所在する観世音寺が,やはりその筆頭である。律令体制下の地方支配の重要拠点「大宰府」とともにあって,I府の大寺jと称されたこの寺に居並ぶ諸像の,都風の洗練と,加えての大きさは,当地にあって他の追随を許さないものがある(注1)。鎌倉時代の前半に至るまでについては,当地の仏像は,このような観世音寺の諸像を中心,頂点として裾野を広げる構図の中に,位置付けられてきたと言ってよい。確かにそのような理解が相応しい作例は多い。しかし福岡平野には,ややそれらとは趣を異にする作例も散在している。その代表として挙げ得るのが,小田観音堂の千手観音立像である。小田観音堂には現在,この千手観音立像を中心に,3躯の菩薩立像が安置されている。これらについて従来は積極的な評価はなされてこなかった。できなかったのかもしれない。私が最も興味惹かれ,一連の像について考察する際に鍵になると考える千手観音立像にしても,福岡ではその存在だけは,少なからぬ研究者に知られていながら,制作時期を話題としても,見解は平安時代,鎌倉時代,あるいは室町時代などと分かれる有り様で,実のところ私なども,学芸員になったばかりの頃に初めて拝した時は,平安時代の造像という上司の説明を聞きながら,困惑した心持ちの中で,近代以降のものなのではないかと,ひそかに思ったことだ、った(注2)。他の研究者のことは分からないが,私の困惑を導いた要因ははっきりと自覚している。近代以降ではないかと思ったのは,近代以降の仏像を知っていたからではない。全く逆,何も知ら1 ,はじめに進

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