2,小田観音堂の3躯の菩薩立像なかったからである。学生の時に貧弱ながら身に着けていた,仏像の制作年代を測る飛鳥時代から江戸時代へと至る物差しの中には,この像は,素直に馴染まないように感じられた。当時の私にとって千手観音立像は,まさに異風漂う不思議な仏像であった。そこで,全く基準をもたない近代以降に投げ込んでしまおうとしたのである。しかし勿論,それで納得ができたわけではなく,その後は用務で近くを通ることがあると,しばしば観音堂を訪れて千手観音立像を拝していた。その内にやがて,平安時代の仏像であることは間違いないと考えるようになったが,かつてに比べると少しは精度が増したと思う物差しにも,相変わらずおさまるべき一点を押さえかねていた。そのような時,この度幸いにも環境が整い,小田観音堂の3躯の菩薩立像の調査が叶った(注3)。そこでここではまず,調査の概報を行い,これらの像についての,現時点での見解を述べることにする。そしてそののち,これらの菩薩像が成立する基盤としての,当時の福岡平野の様相について考えながら,現段階ではまだ不充分なものではあるが,この報告文を,異風ある菩薩像や,平安時代後期から鎌倉時代前期の当地における造像活動について,今後考察を深めてゆくための試金石にしたいと考える。(1) 小田観音堂小田観音堂は博多湾の北西部,小高い丘の頂に所在している。東側に小田111とともに僅かに開けた平地を配l,その平地を越えて海を眼下に見おろす。丘の頂は周囲を木立が縁取っているが,その木立を透かして,すぐ近くに手に取るように,博多湾の東方から延びる海の中道の先端にとりついた,志賀島の安が眺められる。ここ小田から少し北へ向かうと,遣唐使の昔から,玄界離の荒波を避ける船が寄港したという唐泊を経て,その先にはもう,玄界灘が蒼く広がるばかりである。この地は,志賀島と向かい合って,博多湾と外海との境界に位置することになるわけである。Eの頂は,広くはないが平らになっていて,観音堂の他にも小さな堂社が散在している。ここは江戸時代の地誌によると,奈良時代に清賀上人によって聞かれたと伝える,高歳山光明寺という寺院の故地だという。かつてはより多くの堂宇が,至る所に存在していたのかもしれない。そして小田観音堂には,これを証するかのように,たくさんの仏像が所狭しと伝えられていた。多くが朽ちてしまったこれらの仏像は,変わらぬ信仰を集める,かの3躯の菩薩立像をのぞいて,今は全て九州、|歴史資料館に保管されている。325
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