鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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を勘案すると,古様にも見えながら千手観音立像の造像時期は,11世紀,およそその半ば頃から後だと見るのが穏当ではないだろうか。さて,次は十一面観音立像と不空語索観音立像であるが,これら2像は,作風はそれぞれ千手観音立像とは聞きがある。ともに肉身はそれなりに丸みと柔らかさを見せるが,衣文の彫口などは,あたかも石仏のそれのように硬い。制作て房のみならず,本来ー具であったものかという点についても,検討してゆく必要がある。しかし少なくとも,千手観音立像を強く意識し,それに倣いながら造像しようとしたことは,間違いなかろう。無関係に成立したとするには,材質や構造,そして着衣形式など,共通点が目立つ。私はこれら2像について,千手観音立像とはそれぞれ別の作者により,千手観音立像に随侍するべく造像されたものと見ている。時間的な距離については今回は保留したいが,やはり11世紀の造像と考えておきたい。それにしても,千手観音立像の異風は際立つている。3躯の中にあってもそうであるが,私が千手観音立像に連なってくるのではないかと考えている,長谷寺の十一面観音立像や,荘厳寺の聖観世音菩薩立像なども個性的でありながら,それらの像の,それぞれの時代での在り方と比較しても,何かしら飛躍のようなものを感じる。11世紀の当時,世の造像がなべて平明なものへと向かっている時期に,この像の作者はこの像に,古様さと言うよりも,ことさらに常ならざるものを集約させようとしている様子が窺える。都風の姿を目指しながら崩れたというのではなく,ここには確たる技術と志向とが感じられる。このような仏像が造像され受け入れられる基盤が,この地にはあったということに他ならないが,それは一体どのような状況であったのか。このような,太宰府を除いては当地に希有の大像の背景には,それなりに充実した基盤が想定されて良い。つぎに平安時代後期の福岡平野の様相について考えてゆきながら,この像の異風を解くための糸口を探りたい。3,福岡平野の様相と千手観音立像(1) 平安時代後期の福岡平野ここでは11世紀を中心として,平安時代後期の福岡平野の様相を確認してゆくこととする。この頃の福岡平野の様相を考えるにあたっては,まずはやはり,かつて福岡平野のみならず九州地方の中心であった,太宰府について見てゆくべきであろう(注5) 0 7世紀の後半,対外交渉と九州地方支配にかかる重要拠点として,福岡平野の南329

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