鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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の奥に大宰府は設置された。この大宰府は設置以来,次第次第に性質を変化させつつも,中央政府最大の出先機関として,律令体制下を通して重要な役割を果たし続けたのである。確かにかつては,天慶4年(941)に藤原純友の侵入により焼け落ちた後は,政庁域は復興されず大宰府は衰えていったとされていた。しかし九州歴史資料館が開館以来継続して行っている,大宰府史跡の発掘調査は,政庁が直ちに復興されていたことを確認した。その後太宰府は中心部を東方へと移動させてゆき,政庁域については,11世紀後半代に衰えた可能性があるとも発掘調査は指摘するが(注6),体制の変質が速まり,やがて訪れる衰退の時を前にしながら,11世紀においてここはなお,華やかに繁栄を続けていたのである。そして都の縮小版とも言うべき大宰府の郭内には,都には希な都風の建築や文物が華やかな姿を見せて,都から派遣された高官の心を慰め,中央への志向を持つ官人たちの心を満たし,さらには九州各国から集まる人々の熱い眼差しを集めていたことであろう。今この活況を実感したいと思うときは,観世音寺に居並ぶ巨像を仰ぎ見るだけでもそれは叶う。康平7年(1064)に観世音寺は悲劇的な大火に遭ったが,この時もやはり,大宰府の力を背景に復興は迅速であった。2年後の治暦2年(1066)には,本尊として丈六の聖観世音菩薩坐像を安置して落慶法要が執り行われ,さらに延久元年(1069)には丈六立像の十一面観音が造像安置される運びとなった。これら11世紀の観世青寺で造像された巨像は,この世紀の半ば近くになって実現され,今,天喜元年(1053)の平等院鳳風堂阿弥陀如来坐像に典型を見る,円満整美な姿を早くも体現している(注7)。当時の太宰府が都と直結していたこと,そしてここでは,都の文化的志向が,そのままに再現されるべく図られていたことが知られる。私見では観世音寺にはこの他にも数躯,これから時を措かずして造像された作例があり,以後周囲にこのような仏たちの造像が広がってゆく様子を偲ばせている。都風の志向は,なお盛んな大宰府の存在を要として各地に広がり,畿内を中心にもち,太宰府を小中心とする,以後牟世紀の継続を見せる円満整美な仏たちの造像が,大きく展開してゆくことになった。ただしこの頃福岡平野では,博多湾岸地域において,新しい動きが広がりつつあったことは注意される。先の大宰府との関わりに即して見れば,11世紀の半ば頃,大宰府鴻臆館が終末を迎えたらしい事は象徴的である。福岡平野の中心が,内陸に設置された大宰府に移ってからも,博多湾沿岸が要地であることに変わりはなく,対外交渉の前線拠点として鴻櫨館が置かれていた(注8)。外国からの使節の応接にあたったこ330

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