鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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11世紀の後半から13世紀の後半に至るまで,存続したものと考えられている。政治区の鴻臆館は,同時に,対外交易の拠点でもあった。そしてむしろ平安時代に入ると,唐や新羅の商人との交易の場としての性格を強める。大陸の文物は鴻腫館を接点として列島内に流入していった。しかし政府の管理のもと,点で行われるべく図られた対外交易は,実際には早くから面的な広がりを持っていたようである。私貿易の興隆である。もとより宮司による公的な交易の後は,私的な交易が許されていたとはいえ,その流れさえもが遵守されない状況が,日常化していった様子が窺える。唐物への需要は大きい。供給しようとする側の熱意も強い。供給口の広がりが求められたのは,当然の事態であろう。律令体制そして大宰府の変質を背景に,早く使節の応接という任は無実となり,相対的に交易拠点としての重要性までも低下させていた鴻臆館の終末は必然だった。そしてここに,次第に高まりを見せていた,当地ならではの交易のかたちが,ついに大きく花聞いたのである。そのような交易の要となったのは博多綱首である(注9)。彼らは大海を往来して,東アジアを舞台に交易を行っていた宋人であったが,博多の地に拠点を定めて活動していたことからこの名がある。博多の地には,I博多津唐坊J,あるいは後世「大唐街」と称される,日本では初めての大規模な中華街が,11世紀の後半には形成されていた。聖福寺や承天寺などの著名な禅利や櫛田神社のある辺りが,その故地だと推定されているが,この周辺からは,白磁や青磁などの陶磁器をはじめとする,大量の中国の文物,また中国風の花井文の軒丸瓦や,縁を波打たせた押圧波状文軒平瓦なども見出され,唐物に満ち中国風の建物が異彩を放つ,異国情緒あふれる街並みが姿を見せていたことが推察される。この街並みは,分で言うと平安時代から鎌倉時代を股にかけ,大宰府が落日の騎りを感じさせる中で,博多湾岸地域は博多を中心として,東の箱崎や,やがて西の今津などをも一大拠点としてゆきながら,この後続く国際都市としての繁栄の礎となる,民間交易を原動力とした活況を呈していた。そして,私は件の千手観音立像に,この博多湾岸地域の活況の反映を,色濃く見ているのである。(2) 千手観音立像の作風と造像の背景千手観音立像を,推定の通り11世紀の半ば頃から後の造像としたとき,この像の作風は,この頃から全国に広がる,円満整美な仏像のそれとは一線を画するものと見える。もちろん,没交渉で独自に展開していたというのではなく,例えば衣文に顕著な,丸みのある穏やかな彫口の源には,都より来た仏のそれを学んでいることを感じさせ-331-

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