るのではあるが,しかし仏師そして願主も,必ずしも都の仏を絶対的な規範と考えている訳ではないことが窺える。異なる造形の志向は,異なる造像の環境を暗示するものであろう。ここにおいて,円満整美な仏たちが,列島内の中枢である都や大宰府の力,そしてそれに倣おうとする地方の人々の志向を,展開の基盤とするものとみたとき,その基盤を部分的に共有しながらも,規模や継続の長さはともあれ,それと共にいわば併存もし得るような,そして異風ある大像の造像を叶え得るような,充実した存在として想定できるものは限られている。それを私は,交易を背景として経済的充実を見せ,11世紀当時他地方には見られない濃さで国際交流が進んでいた,博多湾岸世界ではないかと考えているのである。このように考えたとき,小田観音堂の立地は,一段と興味深いものに見えてくる。先述の通り,小田観音堂は博多湾と玄界灘との境界で,志賀島と対峠しながら海を見下ろす位置にある。博多綱首の交易船も,朝鮮半島や大陸を目指した日本人商人の船も,必ずこの丘の眼下を通って大海に乗り出し,あるいはようやく無事旅を終えることが出来た。そしてもとより観音は,航海の守護者としての性格が,強く期待されているところでもある。伝承される寺号の光明寺が,交易をこととする商人や漁師を中心に,中国の東海にあって篤い信仰を集める観音の聖地,普陀山に通ずるところも注意される。新旧の『華厳経』で知る如く,観音の住処普陀浩山は,又の名を光明山ともいう。堂の立地としても,尊格としても,また寺号としても,まさに博多湾沿岸を拠点とし,大海を航海する商人たちが願主となって造像されるに相応しい存在だということができょう。博多綱首が深く関与している可能性もあると考える。では,異国情緒あふれる博多湾岸地域の様相を基盤とし,宋人が願主となっている可能性もあると見る,この千手観音立像の異風は,すなわち宋風なのだろうか。想定される造像の環境に加え,平安時代後期の日本にあっては異質な,生々しい肉身の質感,派手な腰帯,ひらひらと波打つ衣縁などを見ると,鎌倉時代初頭の仏像のいくつかについてまま解説されるように,直ちにその言葉をもって表現したい衝動に駆られる。確かに波打つ衣縁や裳裾の様子には,宋仏画に通ずるものがある。ここで畿内の動向に比べ早きに過ぎるという疑問も出ょうが,その点については,早さ新しさがこと大陸文物の受容に関わるものである限り,ここ福岡平野ではあり得ないことではない。ただし細部を見ると,例えば特徴ある腰帯の構成は,宋代の仏画にも仏像にも,類似したものを見出せない。むしろ長谷寺の十一面観音立像の天冠台や骨命11,また若332
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