杉山の千手観音立像の天冠台など,当地の先行する仏像の装身具に,その構成の源が求められる。異相や肉身の表現も,彼の地の仏そのものとは,やはり言えない。必ずしも宋の仏の,忠実な再現を図って造像にあたったものとは言い難いようである。異風は異国風に通じてはいるが,i宋」に厳密には結びついていない。仏師は自らが歩みきた,長谷寺の十一面観音立像以来の,北部九州における造像の伝統を基に,都の円満整美な仏の姿を眺め,身近に存在していた可能性のある,宋代の作例を中心とする,古今の舶来の仏画や彫刻を強く意識しつつ,あるいは願主にそれを指示されながら,当時新たな活況を見せ始めた博多湾岸地域に相応しく,小田観音堂の立地と役割に相応しい姿に造像すべく試みたのではないだろうか。私はその過程が,この千手観音立像に漂う異風を導いたのではないかと考えている。そしてこの,中国にも無く,日本にも素直には馴染みにくい趣こそが,しかし恐らくかつてこの像が造像された場には,最もしっくりくるものであったのだろう(注10)。4,結びにかえてーその後の展開一さてここまで述べてきたごとく,千手観音立像の造像が,一般的な地方における仏像の造像と少し趣を異にして,都を中心とした展開の中に素直に収まるものではなく,博多綱首の存在を要として活況を見せる博多湾岸地域の充実を,確かに主たる力とするものだとすれば,この様なかたちの造像活動はこの後,その基盤が存続していた期間だけ,博多湾岸地域を中心に福岡平野において続いていた可能性があろう。そしてそれは,いわゆる「鴻臆館の時代」と「蒙古襲来の時代jの聞の,i博多綱首の時代Jと称される(注11),11世紀後半から13世紀後半に至るまでの時期に,おおむね重なるものと見てよいのではないかと考えている。今,博多をはじめとして中心部には,このような状況を証言する古い作例は確認されていないが,福岡平野の周縁には,千手観音立像ほど際立つものではないにせよ,これに導かれるように,この頃造像されたと見られる異風ある作例が,確かに散在しているのである。目につくのは菩薩像で,同じく小田観音堂の十一面観音立像と不空霜索観音立像はもちろんであるが,福岡平野を横断して,平野の東を縁取る三郡山地の西側,若杉山の佐谷観音堂に所在する,十一面観音立像〔図12Jなども,その一例として挙げ得ょう。この十一面観音立像は,小田観音堂の3躯の菩薩立像と同様,内事jも持たない樟材のー木造の像で,これらに比べると古様さを感じさせながら,やはり平安時代後期の造像と思われるものである。333
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