鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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(1242)に造像された十一面観音立像〔図14Jにまで辿り着くのではないかと考えていまた,ここ佐谷の大日堂には,一連のものとして捉えられる趣を持ち,同じく樟材の一木造でありながら,構造としてはわずかに内割を施している点変化をみせる大日如来坐像〔図13Jも存在している。こちらは,平安時代末から鎌倉時代初頭にかけての,何れかの時期に造像されたものと見られる作例である(注12)。そして私は,仏師の系譜そのものが連なるものか否かはさておき,これらの様な作例が,当地で継続して造像されてゆく中で,やがて,都風の観世音寺諸像の中にあって異彩を放つ,仁治3年る。様々な点でこの像は,やや時間的な隔たりを感じさせるが,異相,強く丸く括る胸の肉付き,極端に胸の下を絞り下半身に長大な印象を与える点など,造形骨格を共有しているようにみえ,一連の流れの下限と見ることも可能であろう。ただし,このように千手観音立像以後の継続を考えたとき,ひとつ問題となるのは,12世紀後半の空白である。九州地方では銘文を持つ基準作から見ると,12世紀後半の造像は空白的な状況を呈することが指摘されている(注13)。この考え方を傍証するものとして言及された,12世紀後半の,他地方に先駆けての経塚造営の衰退は,福岡平野においても確かに確認される。しかし空白については,銘文をもつものが存在せず,一般的な物差しに少し馴染みにくい異風ある菩薩像たちにまで,強いて当てはめずとも良いのではないか。それこそ逆に,それを埋めるに相応しい存在だとも考え得る。経塚の衰退については,福岡平野においては再び,一段と新しい動向を見せ始めたと捉えることもできょう。平安時代後期から鎌倉時代前半にかけて,文献史学や考古学の成果に見るごとく,独特の充実を見せる博多湾岸地域を中心とする福岡平野を,九州地方の他地域とー列に考える訳にはいかない。やがて13世紀に入り,異風ある菩薩像の所在と重なるように,福岡平野の周縁に,宋風狛犬の広がりが見え始める。先に別の論考にて,宋の強い影響を推定した,仁治2年(1241)造像の裸形着装像,宗像興聖寺の色定法師坐像のような作例も姿を見せる(注14)。造形の志向は,今回中心に見てきた11世紀とはやや異なり,より直接宋に向かうかのように見える。このことに関してこの12世紀後半を,畿内を中心とした造像活動の波が九州地方において一時衰え,一方それゆえに当地においては,相対的に力の増した地方的な造像,あるいは宋の文物を主たる源とする異国的な造形活動の志向が,広がりと深まりをみせた時期と捉えることも可能であろう。この頃日本人商人が,盛んに宋に渡り始めていることが指摘されるのも興味深い(注15)。この間に造像された作例を具体的に列挙するこ334

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