鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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注(4) 寛政10年(1798)完成の『筑前国続風土記附録』をはじめとする,地誌の記述は,とは,今はまだ難しいが,このように考えたとき,同じく古の社会を考えながら,一方で活況,一方で空白といった,相反する見解を解消する方向を提示することができる。そして,今同じ福岡平野に生活を送る私さえもが異風を感じる諸像を,孤立した不可思議な存在という囲いから放ち,かつて最も相応しいものとして受け容れた当地の歴史の中に,有機的な連なりと意義をもって位置付けてゆくことが出来ると考えるのである。13世紀の後半,再び中央の動向と密な形での造像活動が九州地方全域を覆ってゆき,I博多綱首の時代」もまた終罵を迎える中で,ひととき花開いた特色ある造形活動も影を薄くしてゆくが,現存する作例とその連なりは,確かに古の活況を象徴し,そこに生きた人々の信仰や美意識を体現して,今に伝えているのである。(1) 大宰府と太宰府については,古代の役所を指す場合は,慣例の通り大宰府を使用し,地域をあらわす場合は時代を問わず,現在の地名である太宰府を使用する。(2) 当時の上司で現在別府大学教授の,八尋和泉氏に導かれて初めてこの像を拝した。私の言う異風ある菩薩像の位置付けに関しては,八尋氏の見解や氏と交わした議論が礎となっている。(3) 調査は,小田観音堂を管理する福寿寺御住職平分道隆様の御高配のもと,福岡市博物館の末吉武史氏と共に行った。また,浦仏刻所の浦叡事氏,小林貴代氏,そして木下寿太氏の助勢を賜った。部分図を除き,写真は山田満穂氏の撮影である。なおちなみに,小田観音堂の3躯の菩薩立像と,荘厳寺の像が山田氏の撮影になる他,若杉山の2像は八尋和泉氏の,長谷寺と観世音寺の2像は九州歴史資料館石丸洋氏の撮影である。3躯の菩薩立像と,現在九州歴史資料館に展示中の二天像を一具とし,光明寺成立以来のものとする。今回は余裕がないので,これらの実際の関係については稿を改めることとしたい。(5) 大宰府とその展開の概要については,主に川添照二『九州の中世世界.1(海鳥杜・(6) r大宰府政庁跡.1(九州歴史資料館.2002年)に拠る。(7) 観世音寺の都風の丈六像については,仏師が中央の造仏界と密接に結びついてい1994年),高倉洋彰『大宰府と観世音寺.1(海鳥社・1996年)を参照した。335

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