。1)このような時代区分は,林文理氏が,博多・福岡地域の歴史を考えるに際し有効たことに異論はないが,造像に際して仏師が下向したものか,当地に継続してこのような作風・水準の大規模な仏所が存在していたのかという点で,意見が分かれる。詳論する紙幅はないが,私は継続して存在していたとは考えない。下向してきた仏師が留まったとしても,後の世代にそのままの水準で、受け継がれたとは思われないし,その形跡が存在しない。参考となる事例として,13世紀末から14世紀半ば頃にかけて西北九州で活動した,湛康やその弟子たちの仕事があるが,多くの需要に固まれながらも,弟子達は既に中央の作風を保つてはいない。(8) 鴻瞳館とその展開については,(5)に挙げた2書の他,田島公「大宰府鴻臆館の終鷲一八世・紀■一一世紀の対外交易システムの解明J (r日本史研究.1389・1995年)を主に参照した。(9)博多綱首については,1r博多綱首J関係資料J(r福岡市博物館研究紀要』第4号・1994年),I博多綱首の歴史的位置博多における権門貿易一J(r古代中世の社会と国家.1. 1998年)をはじめとする,林文理氏の諸業績に拠っている。側平安時代後期に,福岡平野を中心とする北部九州で類似の傾向をみせる現象に,輸入陶磁の経簡を埋納した経塚が挙げられる。これは日本における経塚造営の展開に連なりつつ,当地の暗好に合わせて宋固に特注された経筒を用いたというものである。また経塚の造営と言うことでいえば,若杉山の佐谷から出土した,天所蔵される経筒も興味深い。宋人たちもまた,融和への志向をみせていたことが看取される。事実彼らの中には日本名を持つものもいた。なものとして設定されているものである。(12) 2像については実査に至っておらず写真資料と,<九州の寺社シリーズ8>r筑前粕屋若杉山の仏教遺跡.1(九州歴史資料館・1986年)に拠った。同八尋和泉「日田永興寺文治三年銘毘沙門天像と九州、|の『藤末鎌初jについてJr九州歴史資料館研究論集.111・1986年(14) 井形進「宗像興聖寺の色定法師坐像Jr九州歴史資料館研究論集.127・2002年(1司森克己「九州と大陸との文化交流Jr仰教芸術.176・1970年治3年(1126)に宋人鳴栄が日本人僧らと共に埋納した,現在東京国立博物館に336
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