三国時代古墳壁画の思想的考察を中心と26 同朝陽地区博物館等「遼寧朝陽発現北燕,北貌墓Jr考古j1985-1 (同同注(52)。(54) 雲南省文物工作隊「雲南昭通後海子東晋壁画墓清理簡報Jr文物j1963-12 同『晋書』中宗元帝紀にはI(太興二年)十二月乙亥……鮮卑慕容魔襲遼東,東夷校尉,平州刺史崖悲奔高句麗」とある。(日)朝鮮民主主義人民共和国科学院考古学及民俗学研究所「安岳第三号墳発掘報告」『遺跡発掘調査報告』三,1958年;洪晴玉「関子冬寿墓的発現和研究Jr考古j1959 間東潮「遼東と高句麗壁画墓主図像の系譜Jr朝鮮学報』第149輯,1994年倒甘粛省文物考古研究所『敦憧例爺廟湾西晋画像碍墓』文物出版社,1998年同この壁画墓は1991年12月に,敦埋博物館によって発掘調査されたものである。資料はまだ発表されていないが,敦煙で発掘調査した際に,一度見学させてもらったことカfある。側高句麗壁画古墳においても側面向き墓主像と正面向き墓主像が並存している。私はそれと東北地方における二つのスタイルと緊密に関連すると考えたい。つまり,高句麗壁画古墳自体はそれぞれ民族性をもっと考えている。詳しい論証は別稿に譲りたい。相)百橋明穂・中野徹主編『世界美術大全集東洋編4・陪唐J小学館,1997年倒李股昌「韓国古代壁画の思想的研究するJr省谷論叢j16,ソウル1985年。側劉中澄氏は「単独正面端坐」の墓主像が仏教影響をうけていると,すでに1987年に指摘された(1関子朝陽衰台子晋墓壁面的初歩研究Jr遼海文物学刊j3参照)。
元のページ ../index.html#35