鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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26年(1893)9月,東京帝大哲学科に入学した樗牛は教授や仲間と『帝国文学』を創刊したり,r滝口入道』を執筆したり,まさにその文筆家としての才能を一気に開花させたといってよいだろう。3 )がある。この中で遣造の演劇改良への功績を認めながらも「歴史小説の本領はその理想化にある」という観点から,r桐一葉』は感服もしたが失望もした,と述べ,さ第l期後半では,当時の絵画界に対する批評が中心である。明治29年(1896)とい(2)第2期明治30年(1897)5月頃■明治31年(1898)10月頃(3)第3期明治32年(1899)4月頃■明治32年(1899)9月頃(4)第4期明治32年(1899)10月頃■明治33年(1900)4月頃(5)第5期明治34年(1901)2月頃以降(1)第1期明治28年(1895)7月頃■明治29年(1896)9月頃樗牛が最初に書いたと思われる美学,美術をタイトルにした文献は,二高在学時の明治24年(1891)6月,二高文学会の機関誌『文学会雑誌Jの創刊号に載せた「美学と科学jとされる。この頃の樗牛は,山形県鶴岡の実父へあてた手紙の中で「将来は哲学か歴史を専攻したい」ことを書いており(注2),美学はともかく,美術にとくに強い関心を寄せた形跡はみられない。その後しばらく美術関係の文章が途絶えている。本格的に美術評論を発表するのは,上京し東京帝国大学に入学してからである。明治その後の樗牛の美術評論の歴史を見てみると,時期によって似通ったテーマの集中が見られる。それによって筆者なりに下記のように5つの時期に分類してみた。次章以降でそれら各時期の樗牛の美術評論についての概略を述べ,そこから近代美術史上における樗牛のスタンスを検証してみたい。2 歴史画論争へのプロローグ■第l期から第2期まで大学在学中に博文館刊『太陽』の文芸評論担当に迎えられてから,病気療養で休筆した時期をはさみ,旧制二高教授として仙台へ赴任するまでの約l年余を第l期とした。らに後日,人を動かす力がある,旧来の陳套を引きずらない,と評価したものの「正史に忠実なせいで悲劇性が薄い」と批評(注4),後の歴史画論争につながる史劇論の発端となった。第1期前半には,坪内遣準の戯曲『桐一葉jへの批評を書いた「演劇界の近時J(注341

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